ゲイムマンのダイスステーション 日本縦断ゲーセン紀行
101.江の電と大仏様
スタート時点での「ゲーム路銀」は、「ゲーセン」にちなんで¥5,000(G千)。
500形に乗車した。ドアの上にモニターがあり、沿線観光案内の映像が流れている。 鎌倉を出て、住宅地を走る。左右とも、沿線の民家が近い。 12時5分、大勢の人々とともに、長谷駅で降りた。構内踏切を渡って改札を出る。 (ゲーム路銀 ¥18,965-¥190=¥18,775)
よく晴れて暖かくなった。歩道はあるが、人が多くてそこかしこであふれている。 私もときどき、人とすれ違うために車道へ出て歩く。
カメラを構えた人々の邪魔にならないように歩き、 歩く人々の邪魔にならないようにカメラを構える。
まず、大きな金色の阿弥陀様に参拝。 源頼朝が厄除けのために建立した像という伝承がある。 続いて、御本尊の十一面観音様にお参り。 高さ9.18メートルを誇る木造仏。 伝説では721年、大和の長谷寺の開山・徳道上人の本願で、 楠の巨木から2体の観音像が造られ、うち1体を海中に投じたところ、 736年になって、横須賀の長井に現れたため、 当地に遷座され、この長谷寺が創建されたとされている。 実際のところは後世の修復も多くて、いつ造られた像かはわかっていないらしいが、 長谷寺のサイトによると、光背や、御前立の観音像が室町時代に修復されているので、 御本尊も、少なくともその頃までには造られていたようだ。 そんな昔に、木でこの大きさの像を造る技術がすごいと思う。 観音堂と大黒堂に併設された、宝物館に行ってみた。 観音像の光背の一部(現在の光背は平成の再建)や、1412年に造られた大黒天像、 重要文化財の十一面観音懸仏、同じく重要文化財の梵鐘(1264年)、 観音三十三応現身像(室町時代のもので、中国服を着た像や、密教風の像もあり、多彩) などが展示されていた。大勢の人々がつめかけていた。
大黒堂で大黒様にお参り。もともとは1412年の大黒天像がまつられていたらしいが、 現在は、その代わりとなる像を中心に、さまざまな像が安置されていた。 輪蔵は、回転式の書架がある経蔵。書架には一切経が納められており、 1周まわすと一切経を読んだと同じ功徳が得られるとされる。 チベット仏教のマニ車のようなものを想像していたが、 ここの書架は、日本のお寺を八角形にしたようなデザインの、木造の大きなものだった。 回してみた。1回ゆっくり回しただけなのに、軽く目が回った。 つくづく自分の平衡感覚のなさにあきれる。
石段を下りて、弁天窟に入った。 石窟の壁に、弁天様と十六童子の御姿が彫られていた。 奥へ進むと天井が低くなり、身長171センチの私でも、 身をかがめて歩かなくてはならなくなる。 もし今、地震が起こったらどうしようと、不安になりかけたところで出口に着いた。
長谷寺(長谷観音)のホームページはこちら
歴史書の『吾妻鏡』には「釈迦如来像」とあり、与謝野晶子も 「かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におわす 夏木立かな」とうたったが、 実際は阿弥陀如来像である。 説明板に書かれていたところによると、 源頼朝の侍女・稲多野局が発起し、浄光という僧侶が勧進して、 1243年に木像が完成したが、大風で破壊されたため、 1252年に現在の青銅像が着工されたという。 もとは大仏殿もあったが、たびたび大風で倒れて、そのつど造り直されてきた。 しかし1498年に津波で流されて以降は再建されず、露座となっている。 関東大震災では台座が崩れたが、大仏自体は無事だった。 現在では首の部分が強化プラスチックで内側から補強されており、 さらに台座に免震構造がほどこされている。
20円払うと、胎内を拝観できる。一度に30人しか入れないので、2、3分並ぶ。 暗くて狭くて急な階段を、下りてくる人とすれ違いつつ上っていくと、 飾り気のない胎内に出た。 「飾り気のない」というのは、像の内側が まったく大仏の形そのままの形で空洞となっているためで、 鋳造技術の高さを示していた。 奥の売店に「カレーライス」と書かれた札がかかっていたのを見て、 急に昼食が欲しくなってきた。 でもカレーを食べるほど空腹ではなかったので、やきそばを食べる。
高徳院(鎌倉大仏)のホームページはこちら 帰り道、ソフトクリーム屋さんの2階のベランダにリスがいて、注目を集めていた。 たぶん野生。 あと、今回は立ち寄らなかったが、この近くには鎌倉文学館もある。 鎌倉文学館のホームページはこちら 長谷駅到着午後3時20分。次の藤沢行き電車は3時29分発。 やってきたのは大きな窓が特長の2000形2両と、レトロ風の20形2両。 発車してすぐ踏切を渡り、再び住宅地を走行。細いトンネルに入る。
極楽寺へ行こうとしたが、道に迷って小学校の前に出てしまう。 橋まで引き返して、線路沿いに歩くとすぐ、
極楽寺に参拝。1259年創建と伝えられる。 開基は北条重時。2代執権・北条義時の子で、 5代執権・北条時頼の時代に、連署として時頼を補佐した。 開山は忍性(にんしょう)。今でこそ住宅街の中の小さなお寺だが、 かつては東西八丁南北七丁、七堂伽藍に四十九院の大寺院だったらしい。 忍性は今でいう慈善事業を行なっていたそうで、 境内には薬をひくために使われたという石の鉢があった。 枯れ葉舞い散る道を通って、駅に着いたのは午後4時ちょうど。次の電車は4時7分。 ちなみに駅から海側に行くと、由比ガ浜を一望できる、成就院というお寺があるらしい。 成就院のホームページはこちら
4時7分、鎌倉の名所のイラストが描かれた電車が来たが、 あまりにも混んでいたため、乗らずに見送った。 その次は4時19分。自販機で温かいコーヒーを買って飲んで待つ。 夕方になり、気温が徐々に下がり始めた。 4時19分に来た1000形も混んでたが、乗れないほどではなかった。 駅を出ると、丘陵地らしく、左側の地面だけが一段低い。家並みは切れ目なく続く。 稲村ヶ崎駅で、鎌倉行きの電車とすれ違い。 左側、家々の切れ間から海が見えてきた。 やがて家もなくなり、車窓左側はすべて海の景色に。夕日が半分隠れている。 いったん陸側に入って七里ヶ浜駅、そして再び海が広がる。夕日はもう見えない。 信号場でしばし止まり、鎌倉行き電車とすれ違う。
踏切から駅まで戻る途中、藤沢行きの電車に追い越された。 その次の電車は4時54分発。暮れゆく江の島にもう少し見入りながら待つことにした。
やってきた電車も混んでいた。 しばらく海沿いを走り、やがて右に曲がって、また民家の塀に沿って走る。 この辺りに、源義経が腰越状を書いた満福寺があるのだが、見えなかった。 満福寺のホームページはこちら 最後尾の車両のドアが開かない腰越駅を過ぎると、路面区間に入るのだが、 車内が混んでいるので、どっち側の車窓も見えにくい。 4時58分、江ノ島駅で降りた。(ゲーム路銀 ¥18,375-¥190=¥18,185)
湘南すばな通りを歩いて、海へ向かおう。 観光客も地元の方も多い商店街で、暗くなっても開いている店が多い。 スマートボール、射的の店もあった。 鉄道3線利用可能というアクセスの良さもあってか、マンションも目立つ。 海が近づくにつれ、強烈な風が吹くようになってきた。 片瀬海岸沿いの道路に出たが、当然海は真っ暗。 江の島も灯台の先の明かりと、ふもとの建物の明かりしか見えない。 それでも境川を渡り、海岸道路を西へと歩く。新江ノ島水族館のある方向だが、
2、3階がゲーセン。2階はプライズ、プリクラ、大型機にエアホッケー。 3階はメダルとダーツ、ビリヤード。店内は広くて新しい。 自販機でお茶を買って、さてどうするかと店内を見回すと、 目の前に『ハイパービシバシチャンプ』があったのでプレー。 すんなり3勝して、「快調!」と思っていたらその後3連敗してゲームオーバー。 (ゲーム路銀 ¥18,185+¥200=¥18,385) 新杉田でプレーしたときもそうだったが、リズムに合わせてボタンを押すのがどうも苦手。 まだ6時にもなっていないが、早めに晩御飯。サンアロハでロコモコを食べる。
今回はここから小田急線で帰ることにする。6時36分の急行相模大野行きに乗った。 乗ってひと息ついた途端に、体のあちこちが痛くなってきた。 ¥18,385 今回のルート
鎌倉市観光課 藤沢市観光協会 藤沢市観光ホームページ 観光かながわNow JR東日本 江ノ島電鉄 湘南モノレール 小田急電鉄 次回、「日本縦断ゲーセン紀行 102.湘南編(5)」は、 新江ノ島水族館と、片瀬西浜の夕焼け。 「日本縦断ゲーセン紀行 100.湘南編(3)」に戻る 「ゲイムマンのダイスステーション」タイトルページに戻る |
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