ゲイムマンのダイスステーション 日本縦断ゲーセン紀行
141.豊橋の二都物語
スタート時点での「ゲーム路銀」は、「ゲーセン」にちなんで¥5,000(G千)。 2010年10月22日。午後6時52分新横浜発のひかりは、案の定混んでいた。 指定席は取れず、自由席も座れず、デッキでしゃがんで1時間8分。 占有面積が広いので、下手に3列の真ん中に座るよりくつろげる。 午後8時豊橋着。ホテルでDSやってたら、ついつい夜ふかし。 翌23日、4時間睡眠で8時半起床。 ライターデビュー20周年&自作ゲーム商品化のめどが立ってきた記念 &新しいケータイを買った記念だけど、特にいつもと変わらないゲーセン紀行。 思惑どおり、前回より格段に涼しくなり、歩きやすい気候になってきた。 エクセルシオールで朝食。
9時54分、今日のスタート地点、二川駅着。
かなり手直しされているものの、町屋風の民家が多くて、宿場町らしい雰囲気。 玄関の上に小さなしめ縄を張っている家や、 「二川宿」と書かれたのれんを出している家も多い。 細い道の割には車が多かったが、 15分後、無事に、二川宿本陣資料館に到着した。
隣には「せいめいや」の看板が出た旅籠(はたご)もある。
順路は2階から。まず、東海道全体に関する展示。 江戸時代の旅人の姿をした人形が出迎える。 道中記や名所図会、膝栗毛といった、江戸時代の本があった。 財布、矢立(携帯用の筆と墨つぼ)、化粧道具、携帯用枕など、 旅人が使った道具も展示。 江戸時代、庶民にとっても旅は身近なものになっていたことがわかる。 (もちろん現代とは比ぶべくもないが) ある旅人の日記から、旅にどのくらいの日数がかかったかを紹介。 途中で何にお金を使ったかも書かれていて、おもしろい。 続いて、二川宿についての解説。もとは二川村と大岩村に分かれていたが、 統合されて、2村の間に二川宿が作られたそうだ。 東海道の中では小さな宿場町だというが、 ジオラマを見ると、街道沿いにかなり長い家並みが続いている。 1階へ。もう少し大きなジオラマがあり、 旅籠の立ち並ぶ町並みと、巡礼、駕籠(かご)かき、金毘羅参りなど、 行き交う人々の姿が、浮世絵をもとに再現され、往時のにぎやかさが伝わってくる。 東海道で荷物を運ぶシステムが、かなり詳細に解説されていた。 東海道の宿場町では、人足100人、馬100匹が用意されていた。 足りない場合は近隣の村に応援を要請していた(このような村を助郷(すけごう)という)が、 大名行列などは農繁期に多く、また、時代が下ると交通量が増え、 助郷の負担が大きくなっていったとのこと。 企画展「海の街道展」(〜11/14)。 吉田(今の豊橋)から伊勢へは、伊勢湾を海路で行くとかなり近かったので、 東三河の人々は、ひんぱんにお伊勢参りに行っていたそうだ。 当時の地図や旅日記、船の模型、船の描かれた絵馬、伊勢を描いた絵、 伊勢みやげの万金丹や伊勢暦などを展示。 常設展に戻る。次は本陣についての解説コーナー。 大名行列をミニチュアで再現。 関札や間取図、宿帳、乗り物(大名駕籠)も展示されていた。 二川宿では、当初は後藤家、次に紅林家が本陣を務めたが、 ともに火災に遭って続けられなくなり、馬場家が引き継いだ。 本陣の経営は難しかったようで、馬場家も苦労したが、 田畑を売ったり、金融業や、紙細工の販売をしたりして、何とか安定させたという。 この展示を見るまで、私は“本陣の経営”というものに思い至らなかった。 幕府から資金が出るものだと思っていた。 二川宿の本陣は、年平均60回利用されていたが、 その半分以上が小休(こやすみ)とよばれる休憩だった。 二川は町が小さくて大人数に対応できにくく、 また浜松や吉田という大きな宿場に近かったため、小休の比率が高かったらしい。 二川宿本陣資料館のホームページはこちら
東海道中膝栗毛では、弥次さん喜多さんが二川宿に着いたとき、 大名がちょうど小休で訪れていたところで、 本陣の周りのあわただしさが描写されている。 ちなみにここで弥次さんは、 中間(ちゅうげん・臨時に雇われたスタッフ)の1人とけんかになるが、 中間の竹光をつかんでねじ伏せている。弥次さんってそんなに強かったのか。 ※後で調べてみたら、東海道中膝栗毛が書かれたのは、 馬場家が本陣を引き受ける少し前で、 その頃の本陣はまだ、この建物ではなかったようだ。 土蔵の脇を通って、裏口から本陣に入る。かまどがある。天井が高い。 靴を脱いで畳に上がった。六畳、八畳、十畳の部屋が連なる。 木戸や障子が開け放たれて、大きな畳敷きの空間が広がっている。 復元工事の際の写真が展示されていた。かなり大がかりに修復されたことがわかる。 なにせ東海道では、草津とここにしか残っていない、本陣の建物なのだ。 小柴昌俊さんの色紙もあった。 江戸時代の建物だけに、鴨居が低い。 茶室だけ、釘隠しが笹の葉の形になっていた。凝っている。 そして上段の間。ほかの部屋より床が高く、さらに真ん中に畳が積み上げられ、 その上に座布団と脇息(きょうそく)が載っている。 玄関の近くへ移動。板の間に駕籠と長持が置いてある。 通路を挟んだ反対側は、「勝手」という、宿の主人家族や使用人の部屋。 こちら側は特に古く、馬場家が本陣を引き受ける1807年(文化4年)より前の、 1753年(宝暦3年)に建てられた。 記念撮影用の着物が、いっぱい下がっていた。 小さな庭を通って、土蔵に入れるようになっている。 修復の際に出てきた棟札や瓦、墨書を展示。 蔵は享保年間に造られたもので、勝手よりさらに古い。 いったん外に出て、 本陣にしか造ることを許されなかったという表門の前を通り、
板の間(ミセの間といい、帳場や荷物置き場として使われた)、 台所を経て、6畳間が3部屋。1段高い所に奥座敷。 旅籠というと、庶民の宿というイメージがあったが、 ここは本陣の隣ということもあり、上級武士の利用も多かったそうだ。 宿泊者に出される食事も再現されていた。旅籠は基本的に1泊2食つき。 煮物と魚の一汁二菜、またはそれに1品がつく一汁三菜。意外とちゃんとした食事。 以前、新居町で旅籠紀伊国屋を見たときにも思ったが、 江戸時代にしては、旅籠の環境って案外悪くなかったのかもしれないと思った。 今では、すぐ横を走る新幹線の音がたびたび聞こえるけど、それでも落ち着いた空間。 土蔵や、別棟の裏座敷を見て、資料館に戻った。 本陣裏の井戸にある自販機で、コーヒーを買ってひと休み。 さあ、この後は、今日いちばんの難関が待っている。 二川宿本陣資料館のホームページはこちら 現在12時47分。次の目的地、豊橋市地下資源館は、二川駅から西へ約1キロの所にある。 今いる所が、駅から東に約1キロだから、合わせて2キロ歩くことになる。 二川駅前通過、午後1時2分。日が出て、さっきよりは気温が上がっている。 とは言っても、前回の猛暑に比べればよっぽど快適だ。 歩道も広くて歩きやすい。 火打坂の交差点を通って、豊橋市地下資源館に到着した。 入口がわからなくて右往左往。
もともとは行基が観音像を彫って安置したのが、岩屋観音のはじまりらしい。 1765年(明和2年)、山頂に聖観音像が建てられたが、 戦時供出されてしまい、1950年(昭和25年)に再建された。
2キロ歩いたけど、あんまり疲れてない。 まあ考えてみれば、私の自宅から最寄り駅まで2キロ近くあるので、 歩き慣れている距離ではある。 前回、猛暑のときに歩いてバテバテになった記憶があったので、身構えていた。
視聴覚教育センターの、さまざまな科学実験遊具のあるロビーを通って、 豊橋市地下資源館へ。(入場無料) 地下坑道風に作られた階段を下りていく。 先日作業員の方々が救出されたばかりの、チリの落盤事故を思い出す。 入口近くに、砂漠のバラ、アメシスト、高師小僧などを展示。 企画展「もったいない 地上の地下資源とエネルギー」(〜11/28)。 携帯電話やリモコン、デジタルカメラ、基板など、 製品やゴミになっている物の中に、大量の金属が含まれており、 取り出すことができれば、けっこうな資源になるそうだ。 こういう金属を、鉱山にある鉱石に見立てた、「都市鉱山」という言葉もあるらしい。 もともとこの場所にあったと思われる、鉱石採掘員の等身大人形の足もとに、 家電製品の基板やコード類が積まれていた。 ほかにも、太陽光発電や風力発電、 トウモロコシやサトウキビから作られるバイオプラスチックや、 廃食用油から作られるバイオディーゼル燃料、 ペットボトルから作られる繊維、 紙やアルミ缶のリサイクルについて、解説されている。 そういえば、豊橋市は530(ゴミゼロ)運動の発祥地らしい。 ペットボトルや緩衝材などで作られた、人形やお城なども展示されていた。 豊橋市地下資源館のホームページはこちら 通常展。まず、紀州鉱山で使われていた、バッテリー機関車と客車の小ささに驚く。 世界の鉱物・鉱石展示室。ブラジルで発掘された、 119.1キロもあるトパーズの原石。下辺も高さも30センチ、ほぼ透明。 同じくブラジル産の大きな水晶も。 ほかに、米、中、豪、韓、ブラジルで発掘されたさまざまな鉱石、 リトアニアのコハク、ポーランドの岩塩、各月の誕生石を展示。 南極観測船しらせから寄贈された南極の石を見て、展示室(1)へ。 鉱物の探査・採掘の方法の展示、トロッコ、いろいろな鉱石 ……の手前に、さっきの続きで、 地元の小学生が廃物を使って作ったおもちゃが、所狭しと並んでいる。 日本の主な鉱山の位置を表す地図があるが、 その大半に×印がつけられ、閉山となったことを示していた。 展示室の中央は、鏡張りの“宝石の間”になっている。 東三河の地下資源について。珪石や石灰岩、頁岩(けつがん・すずりの原料となる)や、 三河白砥(みかわじろと)という白い砥石(粒子の小さな石英を含む凝灰岩)が とれるらしい。 銅・鉄・アルミについて詳しく紹介。 この展示室にも、小学生の作ったおもちゃがいっぱい。 自分や友人の作品を見に来たと思われるお子さんが多い。 私も小さい頃は、夏休みにこういうの作ってたなあ。 地球の歴史、特に中生代の恐竜に関する展示を見て、 地下の展示室へ。こちらは金属以外の鉱物が中心のようだ。 鍾乳洞の模型から、石灰石に関する解説へ。 さらに、石炭、セラミックス、石油、ガス。 そして、「未来のエネルギーコーナー」。 原子力発電、その他新しいエネルギー(太陽光など)、海洋開発。 ここで語られている“未来”は、私が小さい頃に科学マンガで見たような未来。懐かしい。 海上空港など、今では実現しているものも見られる。 未来のコーナーも含め、展示の一部に昭和末〜平成初期の雰囲気が感じられる。 その時期をテーマにしたゲームのプロットを上げたばかりなので、 その頃の香りをかもし出す物に、いまちょうど興味をひかれている。 そういえばさっきの特別展は、「開館30周年記念展」だった。 豊橋市地下資源館のホームページはこちら 午後2時45分。二川駅へ戻ろうと思ったが、お腹がすいたので、 途中にあったカツ丼屋で、みそかつ丼を食べた。 駅到着3時22分。3時30分発の電車に乗った。313系ロングシート車3両編成。 線路際に黄色い花が目立つ。多分セイタカアワダチソウだと思う。 左手の線路を走る新幹線が、私の乗っている電車を後ろから追い越して行った。
バスターミナルと並列に並んでいる、頭端式のホーム。 自動券売機で切符を買う。 本来3時54分発のはずが、ダイヤが乱れていて、少し遅れて電車が来た。 予定では低床連接車の「ほっトラム」が来るはずだったが、
59分発。左に曲がり、センターポール化された軌道をまっすぐ進む。 新川を出てまた左折。札木の先で右折。
歩兵第百十八聯隊の碑があり、その奥、公園の北西隅に、 吉田城本丸跡があった。 歩兵第十八聯隊の碑もある。 両隊ともに、サイパンやグアムで、多くの方が戦死されたそうだ。 吉田城(最初は今橋城)は、1505年(永正2年)に牧野古白が築城。 今川氏と松平氏、後年には武田氏も加わっての争奪戦によって、 城主が短期間に何度も交替している。 1590年(天正18年)に池田輝政が城を拡張したが、10年で輝政が姫路へ移封になり、 拡張は未完成に終わっているとのこと。
あと、この季節だからか、やたらと蚊が寄ってくる。
やぐらの奥、「武具所跡」が展望台になっていて、 城のすぐ北を流れる豊川が、きれいに見えた。 このほか豊橋公園には、歩兵第二百二十九聯隊記念碑、 中村道太(慶應義塾の塾生で、横浜正金銀行初代頭取)の碑、 戦災復興記念像などがあった。 公園を後にする。午後5時を過ぎ、早くも薄暗くなってきた。
西側の歩道には、全然ムクドリがいなかった。 東側にはNTTの高い鉄塔があるので、 それを集合場所の目印にして、ムクドリが集まってきたのだろうか?
車両はモ780形。廃止された名鉄岐阜市内線で使われていた車両だ。 車両番号が、名鉄で使われる独特の字体で書かれている。
夕食は駅1階のレストランに行き、オムライスを食べた。 帰ってテレビを見る。アド街ック天国が終わってチャンネルを変えたら、 ちょうど中日の日本シリーズ進出決定の瞬間が見られた。 ¥3,085 今回のルート
豊橋観光コンベンション協会 愛知県観光ガイド JR東海 名古屋鉄道 豊橋鉄道 より大きな地図で ゲイムマンの日本縦断ゲーセン紀行 を表示 次回、「日本縦断ゲーセン紀行 142.三河編(5)」では、 飯田線で豊川稲荷へ。そして路面電車を完乗。 「日本縦断ゲーセン紀行 140.三河編(3)」に戻る 「ゲイムマンのダイスステーション」タイトルページに戻る |
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