ゲイムマンのダイスステーション 日本縦断ゲーセン紀行
152.明治時代の建もの探訪
スタート時点での「ゲーム路銀」は、「ゲーセン」にちなんで¥5,000(G千)。 2012年1月28日。前の日と同じく8時半起床。 ただし今日は睡眠時間を5時間半確保できた。 昨日はゲーセン巡り中心だったが、今日は半田・武豊の観光をメインにする予定。 ホテルで朝ごはんを食べて、出発。 10時9分刈谷発の新快速大垣行きに乗り、大府へ。 10時25分の武豊行きを待つ。4両編成のキハ75が、5分前にやってきた。 車内は暖かい。今日は曇っているせいか、昨日よりちょっと寒い気がする。 上り列車の到着を待って、発車。 石浜から空席ができて、座れた。 昨日は夜に通ったので見られなかった、東成岩から先の景色を見る。 左は木々が並ぶ。その向こうに工場があるようだ。 右は工場と大きめのアパートが併存。やがて住宅地となり、
線路が途切れたあたりから、歩道がある。よかった。 堀川という川を渡る。 線路があったとみられる細長いスペースが残り、一部は公園となっている。 ユタカフーズの横を通り過ぎ、住宅地へ。 「デートde知多あるき」によると、武豊では味噌・醤油の醸造が盛んだそうだ。 黒い板壁の醸造所の建物がみられる。 はるか遠くの沿岸部には、工場があるらしく、 赤白だんだらの大きな煙突が見える。 それを目印にして歩いていく。
レールが十字型に敷かれたものはたいへん珍しい。 数年前に横浜で、十字型転車台が複数発見されたが、 武豊のものに比べるとかなり小さいため、 小型の車両を人力で運ぶのに使われたとみられている。 一方、この武豊の回転ポッポ台は、通常サイズの貨車を乗せて使われたもので、 全国でもこのタイプの転車台は、ほかに存在しないとみられる。
武豊線はもともと、武豊港に運ばれた、 東海道本線の建設資材を運ぶために造られた路線で、 愛知県最初の鉄道である。開業は1886年(明治19年)。 当初はここが武豊駅で、後に武豊駅が現在の場所に移転してからも、 ここは貨物の武豊港駅として使われていた。
駅の近くまで来たが、さらに国道を北上する。 この先に、醸造伝承館という建物があるらしい。
醸造伝承館は、この中定商店の資料館。要予約で、日曜・祝日などは休館となる。 中定商店(醸造伝承館)のホームページはこちら 武豊駅に戻ってきた。今度は名鉄の知多武豊駅まで歩いてみよう。 途中、古民家を改装した喫茶店があったが、今日は臨時休業らしい。
知多武豊駅到着12時50分。 午後1時ちょうど発の、金山行き普通電車に乗る。 逆方向の電車に乗れば、知多奥田駅から南知多ビーチランドへ行けるのだが、 日本縦断のルートから大きく離れるので、今回は行かなかった。 まあ既に武豊にいる時点で、かなり離れているのは確かだけど。 南知多ビーチランドのホームページはこちら 3500系4両。発車して、住宅街を行く。
青山駅の周りは、比較的大きな市街地。線路は高架化工事中。 成岩駅の左手に、大きなアーチ状の屋根を持つ建物が見えた。 スポーツクラブの体育館らしい。 その先も、大手私鉄らしい車窓風景が続く。 高い建物が増え、知多半田駅に到着。 もう少し先へ進もう。空いているのでずっと座っているが、 ロングシートなので、後ろ(進行方向右側)の景色が見えづらい。 左手に大きな建物が見える。半田市福祉文化会館・雁宿ホールというらしい。
「ごん狐」の舞台となった中山という場所に、新美南吉記念館がある。 駅から西へまっすぐ進むと行けるようだが、遠いので行かなかった。 新美南吉記念館のホームページはこちら そのかわり、駅の近くに、南吉の生家がある。行ってみた。
平屋のように見えるが、実は坂に建っていて、奥の方は2階建て。 左の部屋が継母・志んの下駄屋、右の部屋が父・多蔵の畳屋。 南吉は生涯の大半をこの家で過ごし、 「ごん狐」など多くの作品が、ここで生まれたという。 この家は1986年(昭和61年)から、南吉が生きていた頃の状態に復元され、 翌年から公開されている。 新美南吉は1913年(大正2年)に生まれた。 母・りゑは、南吉が4歳のときに亡くなっている。 青年期から、学校の先生などの仕事をしながら、数多くの童話を作っていたが、 たびたびの体調不良に悩まされ、結核のためわずか29歳で亡くなった。 道の向かいに、南吉が幼少時遊び場にしていた常夜灯が今も残る。 午後1時42分、半田口駅に戻ってきた。 この後、ひと駅南の住吉町に行こうと思っていたが、 ちょうど下り電車がホームにいて、しかも踏切に阻まれてホームに行けず、 電車が出ていくのを黙って見送るはめに。 次の電車は30分後の2時12分。 住吉町まではそれほど遠くなさそうなので、歩いてみよう。 警察署、税務署、裁判所などの前を通る。
駅の西口にゲーセンがあるらしいので行ってみたが、 看板は残っているものの、どうやら閉店している様子。 窓に「テナン 募 」と貼ってあった。 もう長いことテナント募集していて、「ト」と「集」の文字がはがれたのだろう。 今日のルートにある、唯一のゲーセンだったのに。 東口に移動し、国道247号線を東へ歩く。
半田赤レンガ建物は、旧カブトビール工場で、1898年(明治31年)竣工。 後に、横浜の赤レンガ倉庫や、横浜正金銀行(神奈川県立歴史博物館)、 東京日本橋(装飾のみ)を手掛けることになる、 妻木頼黄(つまき・よりなか)の設計。
戦後は長年にわたり、日本食品化工が使っていた。 現在では国登録有形文化財、近代化産業遺産となっている。 内部を公開している日もあるらしい。
赤煉瓦倶楽部半田 隣の住宅展示場でイベントが行なわれているようで、親子連れでにぎわっていた。 2時40分、住吉町駅に戻ってきた。44分発の普通電車がちょうど来たので乗る。 白地に赤ラインの1800系2両編成。これって特急用車両では?
もう午後3時近いので、食事をしたい。 ちょうどこの近くに、行きたかった喫茶店があるので行ってみた。
内部の装飾はさらに目を見張るものだった。 天井や出窓周りは、しっくいだと思うが、 植物の模様や幾何学模様が、細かく施されている。 ダージリンティーを味わい、オムライスを食べた。 優雅なひととき。 旧中埜家住宅・T's CAFEのホームページはこちら
知多みるくキューピーストラップを購入。 なぜか、元となる知多みるく自身の立体ストラップはないのに、 キューピーにアレンジされた物はあるというのが不思議。 ほかにも、各市町のキャラクターそれぞれのTシャツとか、 イメージソングのCDとか、地元の銘菓とか、いろいろな物が売られていた。 隣は、若者の就職活動を支援する 「ちた地域若者サポートステーション」だが、 こちらにも知多みるくのポスターが貼ってある。 知多みるくはもともと、ここのイメージキャラクターとして誕生した。 知多娘。公式WEBサイト JR半田駅に向かう。晴れてきたけど、風が出てきてむしろ寒くなってきた。
ここからさらに東へ歩くと、黒板壁の蔵が建ち並ぶ町に至る。
國盛 酒の文化館のホームページはこちら
「毎時00分、30分受付」 「予約制ですが、見学ご希望の方は受付までお進みください」とあるから、 岡崎のカクキューと同じで、 事前予約がなくても、入れるかもしれない。 博物館「酢の里」のホームページはこちら 酢の里の向かいに立っていた、半田市の解説板によると、 半田では江戸時代から醸造業が盛んで、酒や酢が江戸などに出荷されていった。 酒粕で作られた粕酢は半田発祥で、江戸前ずしに使われたそうだ。 1942年(昭和17年)、このあたりで、黒澤明監督の「姿三四郎」が撮影されている。
酢の里の見学をあきらめれば、明日は大府からスタートできるのだが、 どうも未練が残る。明日また半田まで来てみよう。 酢のイメージが頭に残っていたので、晩ごはんはお寿司。うまかった。 ¥2,705 今回のルート より大きな地図で ゲイムマンの日本縦断ゲーセン紀行(岡崎〜) を表示 半田市観光協会 武豊町観光協会 知多娘。公式WEBサイト 名古屋インフォメーションNavi 愛知県観光ガイド JR東海 名古屋鉄道 次回、「日本縦断ゲーセン紀行 153.尾張編(4)」では、 再び名古屋市に突入。 「日本縦断ゲーセン紀行 151.尾張編(2)」に戻る 「ゲイムマンのダイスステーション」タイトルページに戻る |
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