ゲイムマンのダイスステーション

日本縦断ゲーセン紀行

152.明治時代の建もの探訪
〜尾張編(3)〜


スタート時点での「ゲーム路銀」は、「ゲーセン」にちなんで¥5,000(G千)。
ゲーセンでゲームをプレーして、1面クリアーするごとに、
「ゲーム路銀」は¥100ずつ増える。
(ただし、1プレー¥50円のゲームなら¥50ずつ、1プレー¥200なら¥200ずつ。
 ゲームをプレーするためのお金も、「ゲーム路銀」からねん出する)
この「ゲーム路銀」だけを交通費にして、日本縦断を目指すのだ!
(前回までのゲーム路銀 ¥3,095




2012年1月28日。前の日と同じく8時半起床。
ただし今日は睡眠時間を5時間半確保できた。
昨日はゲーセン巡り中心だったが、今日は半田・武豊の観光をメインにする予定。
ホテルで朝ごはんを食べて、出発。
10時9分刈谷発の新快速大垣行きに乗り、大府へ。

10時25分の武豊行きを待つ。4両編成のキハ75が、5分前にやってきた。
車内は暖かい。今日は曇っているせいか、昨日よりちょっと寒い気がする。
上り列車の到着を待って、発車。

石浜から空席ができて、座れた。
昨日は夜に通ったので見られなかった、東成岩から先の景色を見る。
左は木々が並ぶ。その向こうに工場があるようだ。
右は工場と大きめのアパートが併存。やがて住宅地となり、

11時5分、終点の武豊駅に到着。


武豊(たけとよ)

今日のゲーセン紀行はここからスタート。

駅前の銅像は、1953年、
ここで殉職された駅員の方らしい。
ロータリーの中にあるので、
近くで説明板を読むことができない。
Wikipediaによると、
高橋煕(さとし)さんという方で、
台風で線路が流失したことを列車に知らせ、
大事故を防ぐことができたが、
本人は駅に戻れず、亡くなられたという。

現在はここで線路が途切れているが、
かつてはもう少し先まで延びており、
海岸の近くに、初代の武豊駅、
後の武豊港貨物駅があったそうだ。
廃線跡の道路をたどって、
行ってみることにした。

線路が途切れたあたりから、歩道がある。よかった。
堀川という川を渡る。
線路があったとみられる細長いスペースが残り、一部は公園となっている。

ユタカフーズの横を通り過ぎ、住宅地へ。
「デートde知多あるき」によると、武豊では味噌・醤油の醸造が盛んだそうだ。
黒い板壁の醸造所の建物がみられる。

はるか遠くの沿岸部には、工場があるらしく、
赤白だんだらの大きな煙突が見える。
それを目印にして歩いていく。

里中という交差点に、
「武豊停車場跡地」の碑と、
転車台があった。
転車台には「回転ポッポ台」という
愛称がついている。

転車台は1927年(昭和2年)に造られた。
1999年(平成11年)に、
朽ちかけていたところを発見され、
その後修復されて保存されている。
国登録有形文化財。

レールが十字型に敷かれたものはたいへん珍しい。
数年前に横浜で、十字型転車台が複数発見されたが、
武豊のものに比べるとかなり小さいため、
小型の車両を人力で運ぶのに使われたとみられている。

一方、この武豊の回転ポッポ台は、通常サイズの貨車を乗せて使われたもので、
全国でもこのタイプの転車台は、ほかに存在しないとみられる。

周囲は小さな公園となっていて、
腕木式信号機と、SL型の遊具が並んでいた。
ポイントを切り換える
転轍器のレバー(ダルマ)もあった。

武豊線はもともと、武豊港に運ばれた、
東海道本線の建設資材を運ぶために造られた路線で、
愛知県最初の鉄道である。開業は1886年(明治19年)。
当初はここが武豊駅で、後に武豊駅が現在の場所に移転してからも、
ここは貨物の武豊港駅として使われていた。

日が差して暖かくなってきた。
国道247号線を通って、駅まで戻ろう。
レンガ造りの建物の屋根のてっぺんに、
お坊さんのような人の像が乗っている。

ユタカフーズの敷地の中に洋館があった。
写真を撮っているときに、
キンコンカンコーンと鐘が鳴る。
正午だ。

駅の近くまで来たが、さらに国道を北上する。
この先に、醸造伝承館という建物があるらしい。

黒い板壁の立派な建物が並ぶ。
中定商店という、
豆味噌・たまり醤油の醸造所らしい。
入口に「定休日」の札が下がっていた。

醸造伝承館は、この中定商店の資料館。要予約で、日曜・祝日などは休館となる。
中定商店(醸造伝承館)のホームページはこちら

武豊駅に戻ってきた。今度は名鉄の知多武豊駅まで歩いてみよう。
途中、古民家を改装した喫茶店があったが、今日は臨時休業らしい。


知多武豊

名鉄河和(こうわ)線の知多武豊駅に到着。

ちょうど特急が出ていくところだった。

近くにTAK21という
大型スーパーがある。
ゲームコーナーはなかったが、
トイレに行けてよかった。
店内の自販機でリアルゴールドを購入。

知多武豊駅到着12時50分。
午後1時ちょうど発の、金山行き普通電車に乗る。
逆方向の電車に乗れば、知多奥田駅から南知多ビーチランドへ行けるのだが、
日本縦断のルートから大きく離れるので、今回は行かなかった。
まあ既に武豊にいる時点で、かなり離れているのは確かだけど。
南知多ビーチランドのホームページはこちら

3500系4両。発車して、住宅街を行く。

珍名駅として知られる
「上ゲ」(あげ)に止まった。
ここで降りようかとも考えたが、
普通電車しか止まらないので、
降りると次の電車が30分後。自重した。

青山駅の周りは、比較的大きな市街地。線路は高架化工事中。
成岩駅の左手に、大きなアーチ状の屋根を持つ建物が見えた。
スポーツクラブの体育館らしい。
その先も、大手私鉄らしい車窓風景が続く。

高い建物が増え、知多半田駅に到着。
もう少し先へ進もう。空いているのでずっと座っているが、
ロングシートなので、後ろ(進行方向右側)の景色が見えづらい。
左手に大きな建物が見える。半田市福祉文化会館・雁宿ホールというらしい。

午後1時11分、半田口駅で降りた。
ゲーム路銀 ¥3,095-¥230=¥2,865


〜上ゲ(あげ)〜青山〜成岩(ならわ)〜知多半田〜住吉町〜
半田口

駅前の地図に、
「新美南吉のふるさと
岩滑(やなべ)ガイドマップ」とある。
ここ半田市岩滑地区は、
「ごん狐」「おぢいさんのランプ」
「手袋を買いに」などで有名な童話作家、
新美南吉の地元である。

「ごん狐」の舞台となった中山という場所に、新美南吉記念館がある。
駅から西へまっすぐ進むと行けるようだが、遠いので行かなかった。
新美南吉記念館のホームページはこちら

そのかわり、駅の近くに、南吉の生家がある。行ってみた。

一戸建ての家が並ぶ住宅地に、
まぎれるようにたたずんでいた。
非常に古い建物のはずだが、
きちんと整えられており、
中に入ることもできる。
音声で解説が流れるようになっている。

平屋のように見えるが、実は坂に建っていて、奥の方は2階建て。
左の部屋が継母・志んの下駄屋、右の部屋が父・多蔵の畳屋。
南吉は生涯の大半をこの家で過ごし、
「ごん狐」など多くの作品が、ここで生まれたという。
この家は1986年(昭和61年)から、南吉が生きていた頃の状態に復元され、
翌年から公開されている。

新美南吉は1913年(大正2年)に生まれた。
母・りゑは、南吉が4歳のときに亡くなっている。
青年期から、学校の先生などの仕事をしながら、数多くの童話を作っていたが、
たびたびの体調不良に悩まされ、結核のためわずか29歳で亡くなった。

道の向かいに、南吉が幼少時遊び場にしていた常夜灯が今も残る。

午後1時42分、半田口駅に戻ってきた。
この後、ひと駅南の住吉町に行こうと思っていたが、
ちょうど下り電車がホームにいて、しかも踏切に阻まれてホームに行けず、
電車が出ていくのを黙って見送るはめに。

次の電車は30分後の2時12分。
住吉町まではそれほど遠くなさそうなので、歩いてみよう。
警察署、税務署、裁判所などの前を通る。


住吉町

住吉町駅着2時2分。
半田口で待ってなくてよかった。
急いで歩いたら、
多分15分ほどで来られると思う。

駅の西口にゲーセンがあるらしいので行ってみたが、
看板は残っているものの、どうやら閉店している様子。
窓に「テナン 募 」と貼ってあった。
もう長いことテナント募集していて、「ト」と「集」の文字がはがれたのだろう。
今日のルートにある、唯一のゲーセンだったのに。

東口に移動し、国道247号線を東へ歩く。

半田赤レンガ建物が見えてきた。
想像していたより、かなりでかい。

見る角度によって形が違う、
不思議な造形である。

半田赤レンガ建物は、旧カブトビール工場で、1898年(明治31年)竣工。
後に、横浜の赤レンガ倉庫や、横浜正金銀行(神奈川県立歴史博物館)、
東京日本橋(装飾のみ)を手掛けることになる、
妻木頼黄(つまき・よりなか)の設計。

戦時中は中島飛行機の
衣糧倉庫として使われた。
そのため米軍機の機銃掃射を受けた。
今でもその弾のあとが残っている。

戦後は長年にわたり、日本食品化工が使っていた。
現在では国登録有形文化財、近代化産業遺産となっている。
内部を公開している日もあるらしい。

一部欠けている部分もあって、
この角度から見ると
一見、廃墟のようにも見えるが、
内部が公開できるくらい、
きちんと保存されているというのが
すごいなあと思う。

赤煉瓦倶楽部半田

隣の住宅展示場でイベントが行なわれているようで、親子連れでにぎわっていた。
2時40分、住吉町駅に戻ってきた。44分発の普通電車がちょうど来たので乗る。
白地に赤ラインの1800系2両編成。これって特急用車両では?

2時45分、次の知多半田で降りた。
ゲーム路銀 ¥2,865-¥160=¥2,705


知多半田

大きな知多半田駅。
写真を撮ったが、見事に逆光。

もう午後3時近いので、食事をしたい。
ちょうどこの近くに、行きたかった喫茶店があるので行ってみた。

紅茶専門店「T's CAFE」。
建物は、国指定重要文化財の
旧中埜家住宅。
1911年(明治44年)に建てられた。

ハーフティンバーの瀟洒な洋館。
細かな装飾も凝っている。
バルコニーの手すりなど、ところどころに
若干の傷みもみられるが、
それがかえって歴史を感じさせる。

内部の装飾はさらに目を見張るものだった。
天井や出窓周りは、しっくいだと思うが、
植物の模様や幾何学模様が、細かく施されている。

ダージリンティーを味わい、オムライスを食べた。
優雅なひととき。

旧中埜家住宅・T's CAFEのホームページはこちら

続いて、クラシティ半田へ移動。
昨日、知多牛のすき焼きを食べた場所だ。

1階にある、知多半島のアンテナショップ
「Chita San」の前に、
知多娘。の皆さんの顔はめパネルが立つ。

知多みるくキューピーストラップを購入。
なぜか、元となる知多みるく自身の立体ストラップはないのに、
キューピーにアレンジされた物はあるというのが不思議。
ほかにも、各市町のキャラクターそれぞれのTシャツとか、
イメージソングのCDとか、地元の銘菓とか、いろいろな物が売られていた。

隣は、若者の就職活動を支援する
「ちた地域若者サポートステーション」だが、
こちらにも知多みるくのポスターが貼ってある。
知多みるくはもともと、ここのイメージキャラクターとして誕生した。

知多娘。公式WEBサイト

JR半田駅に向かう。晴れてきたけど、風が出てきてむしろ寒くなってきた。

通りに並ぶフラッグは多分、
ごん狐をイメージしたものだろう。

昨日も道に迷いかけたけど、
こんなに低いガードをくぐるのが
正解のルートだとはさすがに思わない。
身長171センチの私でもぎりぎり。
背の高い人はかがまないと通れない。


半田

昨日の亀崎駅に続いて
「日本一古い」シリーズになるが、
半田駅は跨線橋が日本一古いらしい。
1910年(明治43年)設置。
手前にあるレンガのランプ小屋も
ほぼ同時期のものらしい。

腰折れ屋根の駅舎も、
1912年(明治45年)建築と、かなり古い。
柱などに、凝った装飾がみられる。

駅の横に建つ、「知多酪農発祥之地」碑。
半田駅は1886年(明治19年)に
開業しているが、当初は、
その2年前に営業が始まった牧場に
隣接した場所にあったそうだ。

武豊線の車窓からもよく見える場所に、
武豊線最後のSLとなった、
C11 265が展示されている。

ここからさらに東へ歩くと、黒板壁の蔵が建ち並ぶ町に至る。

ミツカン本社ビルの奥に
大きな蔵がある。
ここは酢の醸造所で、
博物館「酢の里」として公開されている。
ちょうど、見学を終えた団体さんが、
バスに乗り込むところだった。

細い路地に入ると、小栗家住宅があった。
両側に蔵を構えた立派な家だ。
1870年(明治3年)頃竣工。
現在、1階が半田市観光協会の
観光案内所になっている。
営業時間が午後4時までなので、
私が来たときには閉まっていたが。

中埜酒造の「國盛 酒の文化館」。
建物は、酒造りが200年間も
行なわれてきた酒蔵。
こちらも4時を過ぎたので閉まっている。
見学には予約が必要らしい。

國盛 酒の文化館のホームページはこちら

酒の文化館の裏手は、運河になっている。
この運河に沿って、
さっきの「酢の里」方向へ向かおう。

対岸に、
キッコウトミという会社の建物が見える。
味噌、たまり醤油などを作っているようだ。
こちらの建物も年代物だ。

 
源兵衛橋の下の歩道を抜けると、
両岸にミツカンの黒板囲いの建物が連なる風景に。

3つの時代のミツカンの建物が並ぶ。

酢の里の正面に出た。
ここも要予約らしい。
ただ、掲示された文章を見ると、

「毎時00分、30分受付」
「予約制ですが、見学ご希望の方は受付までお進みください」とあるから、
岡崎のカクキューと同じで、
事前予約がなくても、入れるかもしれない。

博物館「酢の里」のホームページはこちら

酢の里の向かいに立っていた、半田市の解説板によると、
半田では江戸時代から醸造業が盛んで、酒や酢が江戸などに出荷されていった。
酒粕で作られた粕酢は半田発祥で、江戸前ずしに使われたそうだ。
1942年(昭和17年)、このあたりで、黒澤明監督の「姿三四郎」が撮影されている。

ミツカングループ本社研究所。
こちらの建物も歴史がありそうだ。
※後で調べたら、1925年(大正14年)に、
中埜銀行本店として建てられたもので、
旧中埜家住宅と同じ、
鈴木禎次が設計したらしい。

黒板囲いの蔵をもう一度ながめる。
暗くなってきた。
風がさらに強くなって寒い。
半田駅に戻ろう。

半田駅から
午後5時31分発の名古屋行きで
刈谷のホテルまで戻る。

酢の里の見学をあきらめれば、明日は大府からスタートできるのだが、
どうも未練が残る。明日また半田まで来てみよう。
酢のイメージが頭に残っていたので、晩ごはんはお寿司。うまかった。

現在のゲーム路銀
¥2,705

今回のルート


より大きな地図で ゲイムマンの日本縦断ゲーセン紀行(岡崎〜) を表示
半田市観光協会  武豊町観光協会
知多娘。公式WEBサイト  名古屋インフォメーションNavi  愛知県観光ガイド
JR東海  名古屋鉄道

次回、「日本縦断ゲーセン紀行 153.尾張編(4)」では、
再び名古屋市に突入。
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