ゲイムマンのダイスステーション

日本縦断ゲーセン紀行

208.関ケ原・決戦の地へ
〜岐阜編(5)〜


スタート時点での「ゲーム路銀」は、「ゲーセン」にちなんで¥5,000(G千)。
ゲーセンでゲームをプレーして、1面クリアーするごとに、
「ゲーム路銀」は¥100ずつ増える。
(ただし、1プレー¥50円のゲームなら¥50ずつ、1プレー¥200なら¥200ずつ。
 ゲームをプレーするためのお金も、「ゲーム路銀」からねん出する)
この「ゲーム路銀」だけを交通費にして、日本縦断を目指すのだ!
(前回までのゲーム路銀 ¥2,950




大垣

2015年11月28日。7時30分起床。睡眠時間4時間。
早起きしたのは、列車本数の少ない路線に行くから。
9時30分発の電車に乗れば、行った先で1時間ほど滞在できるが、
次の10時38分の電車だと、着いて8分で戻るか、2時間半近く待つかになってしまう。

ホテルをチェックアウトして大垣駅へ。
9時30分発の美濃赤坂行きに乗ろう。

大垣駅は、6方向に路線が延びるターミナル。
養老鉄道2方向、樽見鉄道1方向で、あとの3方向がJR東海道本線。

東海道本線には、上りの岐阜・名古屋・東京方面と、
下りの米原・京都・大阪・神戸方面のほかに、
大垣から美濃赤坂という駅に向かう短い支線がある。

東海道本線の起終点は東京と神戸だが、東京は巨大なターミナルだし、
神戸では東海道本線と山陽本線が直通していて、終点という感じではない。
これから行く美濃赤坂駅は多分、東京や神戸よりも終着駅らしい終着駅だろう。

切り欠き式の3番ホームに、
313系2両編成が止まっていた。
ボタンを押してドアを開ける。

車内はセミクロスシート。クロスシート部分は、旧国鉄の普通列車のようなボックス配置。
(もちろん座席自体は新しいが)
土曜日だからか、お客さんは私を入れて5人だけ。ワンマン運転。

出発。左の方で、養老鉄道の電車も同時に出発した。
線形のせいか、向こうの方が加速が速い。置いて行かれた。
左に車両基地(大垣車両区)。右にイビデンの工場。
線路は高架になり、養老鉄道の上を越え、杭瀬川を渡る。

左右に道路の橋脚らしきものが見えた。
すぐ南にある東海環状自動車道の大垣西インターから、
東海道本線を越えて北へ向かう道路を建設中のようだ。
その隣の国道21号・岐大バイパスをアンダークロス。左は農地、右は住宅地。

ここまでは東海道本線だったが、ここから支線に入り、
本線からゆっくり右に分かれていく。
荒尾駅。右手の学校の校庭に土俵がある。左手には神社の森。

荒尾を出ると、住宅地の中を単線でまっすぐ進む。江ノ電のような景色だ。
やがて左右に側線が分岐。9時36分、美濃赤坂駅に到着した。
ゲーム路銀 ¥2,950-¥190=¥2,760
終点だけど、運転士さんに切符を渡し、ボタンを押してドアを開けて降りる。


〜荒尾〜
美濃赤坂

旅客用ホームは1面しかないけど、
構内は広い。
巨大な貨物用ホームが目立つ。

ここで降りたのは私1人。ほかのお客さんは荒尾で降りたようだ。
乗ってくるお客さんは何人かいた。この電車は折り返し大垣行きとなる。

歴史を感じる木造駅舎。

駅前に自転車の駐輪場があるので、
駅舎の全景は撮れない。

貨物ホームの向こう側に工場が並ぶ。

近くにある金生山からは石灰石が採れる。
赤坂支線の先に貨物線がつながっていて、石灰石輸送に使われている。
また金生山からは、2億5千万〜3億5千万年前の、海底生物の化石が見つかるそうで、
金生山化石館という展示施設があるらしい。

一方、駅の北側、金生山のふもとはごく普通の住宅地。
まだ電車は止まっているが、1時間後に来る次の電車に乗ることにして、
お茶屋屋敷跡という所へ行ってみよう。

ウォーキングしている一団がいて、先の角を左に曲がった。
案内板の矢印も同じ方向を指しているのでそちらへ。
民家の間の細い道を歩くと、すぐ着いた。

石垣と萱(かや)で囲った一角に、
木や竹がぎっしり生えていた。
紅葉も見られる。
門があるが、萱で仕切られ閉ざされていた。

北側に少し大きな門あり。だがこちらも閉まっている。

向かいのお寺の鐘楼が立派。

なおも先に歩くと、開いている門があった。
入れるようだ。

お茶屋屋敷は、1605年(慶長10年)に完成した、徳川将軍家専用の宿泊施設。
家康や秀忠が泊まったそうだ。

竹林や畑、家があり、
さまざまな木が植えられている。

紅葉はまだこれからという感じだったけど、
きれいに色づいている木もあった。

広くはないけど変化に富む景色。

春には牡丹が咲くらしい。

駅に戻ってきた。10時30分。ちょうどいい時間だ。
駅前にある喫茶店にも行きたかったけど、そこまでの時間はなかった。

313系の2両編成が来た。ホームに止まると、運転士さんが大垣側の運転室に移る。
この駅から乗るお客さんはさっきより多い。10人以上いる。

10時53分、美濃赤坂駅を後にした。
荒尾でさらに15人くらい乗ってきた。本線に合流し、11時ちょうど、大垣駅着。
改札口で運賃を支払った。20人くらいいるから行列ができてた。
ゲーム路銀 ¥2,760-¥190=¥2,570


大垣

駅のドトールで遅い朝ごはん。
さて続いては、昨日行けなかった大垣城へ行こう。駅前通りを南へ。

アーケード商店街の中に、
城への門が唐突に現れる。

私が大垣城に来るのは今回で3回目。昨日、天守の前まで来たのを含めると4回目。
ただし、天守の中に入るのは15年ぶり2回目。

手前の建物の窓に、
色あせた猿岩石さんの写真が飾られている。
去年来たときから気になってた。

門の右側に艮隅櫓(うしとらすみやぐら)。

天守は1959年(昭和34年)に再建されたもの。
以前は最上階の窓が
悪目立ちするくらい大きかったが、
2011年(平成23年)の改修で、
昔の姿に近くなった。

天守に入る(入館料¥100)。
大垣城は1535年(天文4年)に宮川安定が、
または1500年(明応9年)に竹腰尚綱が築城したとされる。

天守は1595年(文禄4年)から1596年(慶長元年)にかけて、伊東祐盛が築いた。
もとは三階建てだったが、1620年(元和6年)に松平忠良が四階建てに改築。
1635年(寛永12年)に戸田氏鉄(うじかね)が城主になって以来、
明治時代まで戸田氏が治めた。
天守は戦前まで残っていたが、第二次世界大戦の空襲で焼失した。

大垣城は1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの際、
石田三成が拠点としたことで知られる。
天守1階では、関ヶ原の戦いについての解説展示があった。
甲冑(かっちゅう)や刀、槍、火縄銃なども展示。

「おあむ物語」の複製。前回も書いたが、
石田三成の家臣・山田去暦の娘おあむが、城から脱出するときの様子を、後に語ったもの。
天守から松の木を伝って堀に出て、たらいで脱出したという。

杭瀬川の戦いのジオラマ。
関ヶ原の戦いの前日、西軍の島左近と明石全登が、
東軍の中村一栄、有馬豊氏を破った戦い。
杭瀬川といえば、さっき電車で渡ったばかりの川だ。

映像展示。関ヶ原の戦いにおける各隊の動きをCGで再現。
また、戦前まで残っていた旧天守の写真も映し出された。

CGの方はもしかしたら、15年前に見たかもしれない。
2000年、関ヶ原の戦いからちょうど400年が経ったことを記念して、
大垣城で「決戦関ヶ原 大垣博」が開催された。
そのときに作られた映像のような気がする(違ってたらごめんなさい)。

2000年といえば、プレイステーション2が発売された年でもある。
そのローンチタイトル(ゲーム機と同時に発売されたソフト)の1つに、
関ヶ原の戦いをテーマにした、コーエーのゲーム「決戦」があった。
大垣博ではこの「決戦」も展示され、遊ぶことができた。

大垣城

2階へ。戸田氏歴代藩主の画像、大垣城下町のジオラマ、城下の図。
江戸時代のお金や、くし、お歯黒を染める用具、印籠など。
3階では、2010年の天守改修工事について説明。

そして4階の展望台。外観を昔の天守に近づけた分、窓は狭くなったが、
四方全てを見ることができる。お客さんが多くなってきた。

北は大垣駅方面。
高い所に建つ城ではないので、
街なかのホテルから見るような
ゴチャゴチャした風景。
生活感が感じられて、これはこれで面白い。

東側。今入ってきた門が見える。

この展望台には、時を知らせる太鼓があり、お客さんが自由に叩ける。
私は昨日おとといと、「太鼓の達人」でさんざん叩いたので、今日は遠慮しとく。

ビルの間から、
金華山が見えたり(写真左端)、
ソフトピアジャパンの
ツノが見えたり(写真右端)。

南側。養老山脈の手前に
新しいマンションが建つ。

西側は公園になっているので、
遠くまで景色が見通せる。
南宮山と伊吹山の間が関ヶ原。
手前の松が「おあむの松」。
当時の松は昭和の初め頃に枯れ、
現在あるのは二代目。

岐阜城や犬山城のような素晴らしい眺望ではないかもしれないが、
個性的で面白い眺めと言えよう。

天守を出た。南東側から天守を撮影。
東と南の2方向に、
付櫓(つけやぐら)が突き出している。

大垣城

時間の都合で立ち寄らないが、この城の近くに大垣市郷土館があり、
貴重な資料や、ジオラマがあるそうだ。大垣城天守と2館共通券¥150。

城の西側、大垣公園から天守を見る。
戸田氏鉄の銅像が建つ。
おあむの松も立っている。

乾隅櫓(いぬいすみやぐら)も絵になる。

こちらは2014年の春に撮った写真。

八重桜が見事だった。

氏鉄公もいろんな桜の花に囲まれていた。

2000年「決戦関ヶ原 大垣博」のときの写真。
天守はまだ改装前で、大きな窓が目立つ。

鉄砲の実演があった。

2015年11月に戻る。
公園の一角は、
大きな遊具のある児童公園エリア。
このあたりの木々が、
色とりどりできれいだった。

芝生広場には、今日から始まる
「芭蕉元禄大垣イルミネーション」の
飾りつけが行なわれていた。
ここの装飾は市民参加型のようだ。

大垣城

大垣城・大垣公園を後にする。
今日もまた雨が降ってきた。念のため傘を持ってきていて良かった。
駅までの道の大部分はアーケード商店街だから、傘はなくても大丈夫そうだけど。

午後1時34分、大垣駅に戻ってきた。雨はほぼ上がっていた。
大垣を後にして、さらに先へ進もう。

東海道本線1時42分発の普通・米原行きに間に合った。311系4両編成。クロスシート。
発車。途中まではさっきの赤坂支線と同じルート。

今朝通った美濃赤坂行きの支線が右に分かれる。
続いてもう1本、右に分かれる線路。実はこれが東海道本線の下り線。
今私の乗っている電車が通っているのは、正確に言うと垂井線という別線だ。

東海道本線のこの区間は、下り方向に向かって上り勾配があり(ややこしい)、
昔の列車では補機(サポート用の機関車)を連結しないと坂を上がれなかった。
そのため戦時中に、ゆるやかな勾配の別ルートが造られ、下り列車はそちらを通った。

だが、途中にあった垂井駅の利用客が不便を強いられたので、
(新しい下り線に新垂井という駅が設けられたが、町からかなり遠かった)
戦後まもなく上り線に並行して線路が敷かれ(この線路が垂井線)、
こちらを通る普通列車が設定された。

やがて普通列車は全て垂井線を通るようになり、昭和の末に新垂井駅は廃止された。
ただし垂井線は東海道本線ほど頑丈には造られていないので、
重い貨物列車や、スピードの出る特急列車は、今でも本来の下り線を通る。

引き続き垂井線を走行中。農地の中にときどき住宅地が塊で存在する。
右手後方遠くの山が、大きく削られている。
あれが金生山だ。だいぶ多量の石灰石が今までに採掘されたようだ。

やがて全体が住宅地となり、相川という川を渡り、垂井駅停車。
「竹中半兵衛公の里」と書かれていた。
垂井町内の菩提山に、竹中半兵衛(重治)の居城があった。
半兵衛の死後、嫡男・重門が居城を岩手城(竹中氏陣屋)に移すが、
こちらも垂井町内。

垂井駅を出発。左手に工場やしまむらなどの大きな建物。
再び住宅地になったと思ったら、今度は右手が茶畑になる。
さらに別の農地に(田圃か)。向こうに重なる山々が見える。
左手に新幹線の高架の線路。

このあたりに桃配山(ももくばりやま)があったらしい。
壬申の乱のとき、大海人皇子が桃を配って兵士を鼓舞した所。
関ヶ原の戦いでは、験をかついだ徳川家康がここに陣を置いた。

上り線がやや右に離れたと思ったら、右手の上の方から別の線路がやってきた。
さっき分かれた東海道本線の下り線だ。合流。
その向こうの山に、「古戦場関ヶ原」の文字が書かれたボードが立つ。

いつの間にか景色は家並みになっている。

1時55分、関ケ原駅着。ここで降りた。
ゲーム路銀 ¥2,570-¥240=¥2,330


〜垂井〜
関ケ原

広告看板のスペースに、
両軍の主な武将の名が記されている。

跨線橋を出たところに、鉄道唱歌の書かれた碑があった。
天下の旗は徳川に帰せしいくさの関ヶ原
草むす屍(かばね)いまもなお 吹くか伊吹の山おろし

原曲の歌詞では「胆吹」だが、この碑では現代の地名に合わせて「伊吹」となっていた。

洋風駅舎の前に、各武将ののぼりが立つ。

駅前の「観光交流館」で史跡マップをいただく。
関ケ原と言えばもちろん関ヶ原の戦いで知られているが、
その前に壬申の乱(672年)の戦場となった土地でもあるらしい。
駅から西にやや離れたあたりを流れる藤古川(関の藤川)や黒血川で、
激しい戦いが繰り広げられたという。
黒血川の近くには、大友皇子(弘文天皇)の首を葬った場所とされる
「自害峯の三本杉」もある。

戦いの後に天皇(天武天皇)となった大海人皇子は、
藤古川の東岸に不破関という関所を設けた。
かつては不破関・鈴鹿関・愛発関(あらちのせき)より東側の土地を
「関東」と呼んでいた。

駅から跨線橋を渡って北へ。
松平忠吉・井伊直政陣跡に立つイチョウが、
鮮やかに色づいている。

関ヶ原の戦いの戦端を開いたのが井伊直政。
予定では福島正則が先鋒となるはずだったが、
福島隊より先に井伊隊が、西軍の宇喜多秀家隊に向かって攻撃し、戦いが始まった。

松平忠吉・井伊直政陣跡の隣に、
東首塚がある。
合戦後、戦死者は2ヶ所に埋葬されたが、
ここがそのうちの1ヶ所。
二股に分かれたスダジイの大木が、
空まで伸びていた。

ここのモミジが凄くきれい。

写真を撮ってる間に、なぜか猫が1匹寄ってきた。

目を開くとかわいい猫なのだが、
タイミングが合わなくて、
そういう顔は撮れずじまい。

関ヶ原の戦いを語るとき、
戦略がどうとか歴史的経緯がどうとかいう視点で語ることが多いが、
この地に立つと、1万人以上の人々が亡くなられた戦いだということを、
いやが応でも実感させられる。
そして、猫がくつろぐような平和を享受できる喜びを感じるのである。

寒風や猫が寄り添う関ヶ原

昨日行った、奥の細道むすびの地記念館の印象がまだ頭に残っていたのか、
余計なところで頭に一句浮かんでしまった。

関ケ原町歴史民俗資料館へ。
(入館料¥350)

レンタサイクル置き場の壁が派手。

1階の展示室。
壁に大きな地図があり、解説の音声とともに、各隊の動きが光で示される。
(戦いの経緯は、博物館の公式サイトにも詳しく記載されている)

1600年(慶長5年)、全国の武将が、
徳川家康率いる東軍と、石田三成を中心とした西軍に分かれ、ここ関ヶ原で相対した。
三成は大垣城を拠点としたが、
家康は大垣城を無視して西へ向かう。
(三成の本拠地の佐和山城を攻撃するという噂を、家康が流したとする説あり)
三成、大垣城を出て、関ヶ原で東軍を迎え討つ。布陣は西軍に有利。

(旧暦)9月15日朝、濃い霧が晴れつつあった頃、
東軍の井伊直政と松平忠吉が、西軍の宇喜多秀家の隊に向けて攻撃を仕掛ける。
福島正則の隊も宇喜多隊に発砲。東軍からのろしが上がり、戦いが始まった。
戦況は一進一退。家康、桃配山を出て、前線の陣場野に移動。

正午頃、かねて家康と内通していた小早川秀秋が西軍から東軍に寝返り、
大軍を率いて大谷吉継を攻撃。
脇坂・朽木・小川・赤座の4隊も秀秋の後に続き、大谷隊は敗れ、吉継は自刃した。
秀秋らは、福島隊と激戦を繰り広げていた宇喜多隊にも襲いかかる。
宇喜多隊、さらに隣の小西行長の隊も総崩れとなる。

一方、家康が最初にいた桃配山の後ろの南宮山には、
西軍の名目上の総大将だった毛利輝元(自身は大坂城にいた)の養子、
毛利秀元らの大軍が陣を構えていた。
しかし、ふもとにいた毛利一族の吉川広家が家康と内通しており、
南宮山の出口から兵を動かさなかったため、その背後にいた大軍も動けずじまい。

そして遂に石田隊も崩れ、三成は敗走。
西軍では最後に島津義弘が取り残された。
義弘は正面突破による退却を図り、家康隊のすぐ前を通過。
追いかける井伊直政、松平忠吉らを負傷させ、脱出に成功する。
ただし、部将の島津豊久らが自ら捨て奸(すてがまり)となって戦死し、
兵も80人ほどにまで減ってしまった。

1階の展示室には、当世具足、火縄銃、陣羽織なども展示されている。
各隊の配置を合成したパノラマ写真もある。
石田三成のいた場所から見たもの。戦況全体がよく見えていたと思われる。
霧が晴れた直後という感じも再現。

関ヶ原の戦いを後世に伝えた、さまざまな書物。
江戸時代の軍記ものや、明治時代に書かれた軍事研究書もある。
大正時代に描かれた、関ヶ原合戦図屏風も。

当時の馬の大きさを示す絵。現代のサラブレッドより30センチは低かった。
もちろん人間の方も、今よりかなり小さかった。

関ケ原町歴史民俗資料館

2階へ。油絵で描かれた、関ヶ原一帯の大きな地図。
NHKの「歴史秘話ヒストリア」で見たことがある。
街道沿いだったので、実は当時から民家が多かったらしい。
家のない場所もだいたい農地で、戦が起こると住民たちはかなり迷惑したらしい。

2階の展示室では、宿場町としての関ヶ原を解説。
中世までの東山道が江戸時代に中山道となり、
現在の関ケ原町内では、関ヶ原宿と今須宿が設けられた。
また北国街道の脇往還に玉宿があった。

いろんな書状が展示されている。
「江戸で亡くなった薩摩藩主・島津斉宣のなきがらが運ばれるが、
関ヶ原が積雪していて通れないので雪かきせよ」という指示や、
「皇女和宮の御一行が関ヶ原で昼食をとることになっているが、
関ヶ原は貧しい上に人手不足なので何とかならないか」という要望書。

本陣の図面。高札。岐蘇(木曽)道中膝栗毛(東海道中膝栗毛の続編)。

野上地区にある「班女の観音堂」について、詳細な解説があった。
平安時代中期、吉田少将という人と、野上宿の花子という女性との間に、
梅若丸という子が生まれた。
少将と梅若丸は東国へ行ったが、便りがないので花子が後を追うと、
梅若は既に死んでおり、少将は都に戻っていた。
花子は心を乱して野上に戻り、ひたすら観音を拝み続けたという。

後にこの話をもとに、世阿弥が「班女」という謡曲を作った。
班女は中国・漢時代、皇帝の寵愛を失い、「怨歌行」という詩を書いたとされる女性で、
花子が班女になぞらえられた。
謡曲では、遊女の花子が少将を思慕するあまり、働けなくなって追い出される。
半狂乱になって京の下鴨にいたところ、少将が通り掛かって、
持っていた扇を見て彼女が花子だとわかり、再会することができた。

一方、世阿弥の息子の観世元雅が書いた「隅田川」では、
隅田川で梅若丸の死を知り、泣き崩れる母親(花子)が描かれている。

この部屋の一角で企画展示があった。「関ケ原町・玉の火薬庫」。
大正初期から戦時中まで、玉(もとの玉宿)には陸軍の火薬庫があったそうだ。
当時使われていた箱などを展示。

別の部屋にもう1つの企画展。「軍旗はためく その時その場の関ヶ原、そして今」。
1854年(嘉永7年)に描かれた合戦図屏風の各場面をクローズアップし、
おのおのの武将の動きを解説。

開戦前に動き出した井伊直政。先陣を切る福島正則と、迎えうつ浮田(宇喜多)秀家。
石田三成の本陣目がけて進む黒田長政、竹中重門、細川忠興。それを防ぐ島左近と舞兵庫。
桃配山から陣場野へ移動する徳川家康の隊。
突如西へと動き出す小早川秀秋。大谷吉隆(吉継)の自刃、平塚為広の討死。
退却する小西行長、敵中突破を図る島津義弘。
そして戦いに勝った東軍が迎えた夜。

この屏風には、各部隊が陣を張った場所と、その戦いの経過、
つまり空間と時間が両方描かれている。
人々の動きの躍動感や、鮮やかな色づかいも素晴らしい。

関ケ原町歴史民俗資料館

外へ出た。
資料館の隣にある陣場野公園は、
「徳川家康最後陣跡」。
戦いの途中で家康の本隊が、
桃配山からここまで移動してきた。

ここは戦場でもあり、戦後の首実検場でもあった。
戦で亡くなった人々を弔うほこら(神社)が建てられている。
「大悲救世」と台座に刻まれた観音像も建つ。
また急に雨が降り出した。だが傘を差したらすぐやんだ。

咲いているのは多分サザンカ。

日が暮れそうなので今日はここまで。明日、この陣場野公園から再開しよう。
午後4時45分、関ケ原駅に戻ってきた。4時51分発の上り電車に間に合った。
5時3分、大垣駅着。


大垣

ホテルに預けていた荷物を引き取る。今日も大垣泊だが、
同じホテルが取れなかったので移動して、別のホテルにチェックイン。
関ヶ原の戦いと壬申の乱の、史跡めぐりマップを見ながら休憩する。

午後7時頃、晩ごはんを食べに外へ出る。
駅南口広場で、
「芭蕉元禄大垣イルミネーション」が
始まっていた。

駅の連絡通路から見える線路を、貨物列車が通る。
ホッパ車とは今どき珍しい。金生山からの石灰石だろうか?

北口の広場も
イルミネーションで彩られている。

ステージ状の噴水。
金生山で採れた、
フズリナとウミユリの化石が
使われているそうだ。

今日もアクアウォーク大垣へ。
大きなクリスマスツリーが立つ。

みそかつとカレーうどんを食べた。うまい。

最後に南口へ戻り、
水門川新大橋のイルミネーションを見た。
それほど大きなものではないけど、
商店街にこういうアクセントがあるだけで、
華やかな雰囲気になった。

現在のゲーム路銀
¥2,330

今回のルート




大垣観光協会  関ケ原観光協会  岐阜県観光連盟
JR東海  樽見鉄道  養老鉄道

次回、「日本縦断ゲーセン紀行 209.岐阜編(6)」では、
関ヶ原のかつてB級スポットだった所へ。
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