ゲイムマンのダイスステーション

日本縦断ゲーセン紀行

209.かつてB級スポットだった所
〜岐阜編(6)〜


スタート時点での「ゲーム路銀」は、「ゲーセン」にちなんで¥5,000(G千)。
ゲーセンでゲームをプレーして、1面クリアーするごとに、
「ゲーム路銀」は¥100ずつ増える。
(ただし、1プレー¥50円のゲームなら¥50ずつ、1プレー¥200なら¥200ずつ。
 ゲームをプレーするためのお金も、「ゲーム路銀」からねん出する)
この「ゲーム路銀」だけを交通費にして、日本縦断を目指すのだ!
(前回までのゲーム路銀 ¥2,330




大垣

2015年11月29日。8時45分起床。
旅で行く所行った所の予習復習に時間がかかると寝るのが遅くなる。
今日も5時間半睡眠。前の3日間よりはまだ寝てる方。

大垣駅へ。コンビニでランチパックを買う。小倉あん。
特急券を求めようとしているのか、出札口に長い行列ができていた。

10時42分発の米原行きで、
今日のスタート地点・関ケ原を目指す。
311系4両編成。クロスシート。
当駅始発なので、
ここでゆっくり写真が撮れた。

車中でランチパックを食べる。10時56分、関ケ原駅着。


関ケ原

関ケ原町歴史民俗資料館まで歩き、ここから今日の旅スタート。
昨日立ち寄れなかったミュージアムショップへ。
Tシャツ、帽子、ストラップ、お菓子等、
観光みやげらしい観光みやげがひと通りあるのはさすが関ヶ原。
スマホケース、クリアファイル等、新しいタイプのものもある。
各武将にちなんだものが多い。

合戦図屏風の一部分を写したストラップを購入。
後で確認したら、大谷吉継自刃の場面だった。

関ケ原町歴史民俗資料館

陣場野公園(徳川家康最後陣跡)から、
田中吉政陣跡を経由し、国道365号を北上していく。
石田三成の陣と島津義弘の陣の、間を抜ける形になる。
積雪のある土地だから、信号機が縦型。

後で知ったが、この道路は開通当初の東海道本線のルートだったらしい。

細い道に入った。民家や畑の中の道。ときおりグーグルマップで確認しながら進む。

池のほとりに出た。
近くにおみやげ屋さんがある。

関ヶ原ウォーランドに到着した。

観光客が多くてびっくり。
観光バスも多数並んでいる。
知る人ぞ知る
B級スポットだと思っていたのだが。

館内へ入る(入館料¥500)。
まず武具甲冑展示館へ。火縄銃、よろい、かぶと、陣羽織。
関ヶ原で使用されたものとされる(江戸時代のものもある)。
井伊の赤備えが目立つ。墨書きの説明書きがいい味出してる。
各隊の位置を旗で示した立体地図もある。

戦いの経緯を説明する文章が、長いけど読ませるものだった。
井伊直政が福島正則を差し置いて西軍に攻撃する場面では、
正則配下の可児才蔵が直政を止めようとするが、
直政から、松平忠吉(徳川家康の四男)に手柄を上げさせるためだと言われて、
しぶしぶ道を開けたという。

家康から鉄砲を撃ち込まれ、裏切りを決意した小早川秀秋。
実は関ヶ原の戦いより前、慶長の役から帰国後、豊臣秀吉に領地を取り上げられたが、
秀吉の死後、家康の取り成しで元の領地を返してもらったという。

湯浅五助と藤堂高刑(たかのり)の話も書かれていた。
五助は大谷吉継の側近で、吉継が切腹した後、遺言に従って吉継の首を埋めて隠した。
しかし、埋め終わったところを高刑に見つかってしまう。
五助は高刑に、自分の首をやるから、
主君の首がここにあることは言わないでほしいと頼む。

高刑は五助を討ち取った後もその約束を守り、
家康に聞かれても、吉継の首のありかを決して言わなかった。
家康もその姿勢を称え、高刑に褒美を取らせたという。

最後は烏頭坂(うとうざか)での島津の捨てがまり戦法。
島津豊久らが自ら犠牲となって東軍を足止めし、島津義弘を逃がすことができた。

関ヶ原ウォーランド

さていよいよ屋外展示。講談調で戦いの経緯を語る声が繰り返し流れる。
等身大の武将像240体以上で、関ヶ原の戦いが再現されている。
各隊の位置関係もほぼそのまま再現。
関ヶ原の戦場全体が、3万平方メートルに凝縮されている。

武将、兵士、馬の像はカラフル。極彩色。
その隣のモミジが色づいている。

像は、最近高く評価されるようになった、浅野祥雲氏のコンクリート像である。
愛知県犬山市の桃太郎神社や、日進市の五色園などに作品がある。

まずは南宮山。
毛利秀元、長曾我部盛親、
安国寺恵瓊(えけい)、長束正家を、
山の上に釘付けにする吉川広家。

関ヶ原の十九女池(つづらいけ)に伝わる
大蛇伝説を表現。

村の若者のところにたびたびお椀を借りに来ていた美しい娘が、実は大蛇だった。
娘のことを不審に思ったある男が、お椀の糸底に針を隠して渡したら、
娘(大蛇)は鉄を嫌って、それ以降来なくなった。
だがある夜、娘が横笛を吹きながら現れ、
よそへ移るからと言って、その笛を置いて立ち去ったという。

ここに再現された像は、蛇ではなく龍になっている。
よくできているが、カラフルだからか、どこかユーモラス。

その先の開けた所で、
乱戦が繰り広げられていた。
名のある武将から一兵卒までが
入り乱れて戦っている。

「もう争いはやめい!
ノーモア関ヶ原合戦じゃ!」
と叫ぶ、
武田信玄の亡霊。

この言葉は、ウォーランド創業者のメッセージを代弁したものらしい。
ただ、順路の前半なので、周りの兵士が聞く耳を持たずに戦っているようにも見える。

真田の旗を背負った、赤備えのお子さんが歩いていた。
お客さんへのよろい貸し出しサービスがあるらしい(大人¥2,000、小人¥1,000)。

像の多くは、
最近行なわれたペンキ塗り直しイベントで、
お客さんの手によって
塗り替えられたようだ。

彩色者の名前が書かれた、
小さな五角形の板が像から提がる。

このペンキ塗り直しによって、戦場が派手でビビッドなものになっている。

もっとも、血の色も鮮やかな赤なので、
可児才蔵が敵を討ち取る場面などは、
より凄惨さが強調される。

宮本武蔵の像がある(左)。
黒田家の兵士として
戦いに参加していたらしい。
(九州で戦っていたという説や、
宇喜多隊に所属していたという説もある)

写真右の兵士は、吉川英治の小説「宮本武蔵」において、
関ヶ原で武蔵とともに戦っていた本位田(ほんいでん)又八。

関ヶ原ウォーランド

福島正則。明石全登の部隊と交戦中。

家康軍の鉄砲隊。銃口を向けた先は松尾山。
小早川秀秋の陣である。
秀秋は西軍の一員として参戦したが、
事前に東軍と密約を交わしていた。
だが正午頃まで動きがなかったので、
焦った家康が催促のため、
松尾山に向けて鉄砲を撃ったとされる。

その小早川秀秋の陣。
右側で腰かけているのが秀秋。
家康から鉄砲を撃ちかけられた秀秋は、
遂に行動を起こす。
1万5千もの大軍で、西軍の大谷吉継隊を攻撃。

大谷吉継(吉隆)の陣。
吉継は業病(ハンセン病とみられる)を患い、
関ヶ原の戦いの頃には
目が見えなくなっていたらしい。
病気のため馬にも乗れず、輿に乗っていた。

吉継は秀秋隊1万5千人の攻撃に対し、わずか600の兵で持ちこたえた。
だが脇坂安治ら近くの西軍4隊も東軍に寝返り、吉継隊は遂に壊滅。
吉継は戦場で切腹した。

宇喜多秀家(右)の陣。
西軍最大の1万7千の兵を擁し、
福島正則隊と激しく戦った。
しかし、大谷吉継隊を壊滅させた
小早川秀秋隊が襲いかかり、秀家の隊も壊滅。
秀家は後に八丈島に流された。
もっとも、島でその後50年以上生き延びた。

小西行長(左)の陣。
行長はキリシタン大名として知られる。
やはり大谷吉継隊の壊滅によって
戦況が不利となり、部隊は壊滅。
伊吹山に逃れていたが、
間もなく出頭し、処刑された。

東軍に対して
正面突破での退却を試みる島津勢。
「捨て奸(がまり)」として自ら犠牲となり、
島津義弘を逃がした島津豊久。

奥の馬上の人が島津義弘。
手前右側の阿多(長寿院)盛淳も、
義弘の影武者となって戦死した。

それにしても、
戦場の真ん中を歩いているような臨場感だ。
動いてないからいいけど、
実際、こんな中で兵士として戦ったら、
どう立ち回っていいのかわからないだろう。

関ヶ原ウォーランド

ここが笹尾山、石田三成の陣。
三成は豊臣秀吉と諸国大名を取り次ぐ役、
いわば秀吉のマネージャーを務めていた。
そのため秀吉と大名たちとの板挟みになり、
悪役にさせられてしまうことも
多かったようだ。

もっとも、関ヶ原の戦いの直前に、大名の妻子を人質に取ろうとして、
細川ガラシャを死に至らしめるようなこともやってしまっているが。

「三成に過ぎたるもの」とうたわれた、
側近の島左近。
細川忠興、黒田長政、竹中重門と
激しく戦っている。
ただし左近は早い段階で、
黒田隊の鉄砲により負傷したとされる。
転倒した姿なのはそのためだろう。
治療を受けた後、また戦場に飛び込んでいき、
行方不明になったという。

戦場の後ろで煙が上がっている。
西軍が上げたのろしの再現か、それとも単に裏で落ち葉たきしているだけか。

竹中重門と鉄砲隊。
重門は竹中半兵衛(重治)の嫡男。
ここ関ヶ原を領地としている。
当初は西軍だったが、
開戦前に東軍に寝返った。

こちら黒田長政。
命の恩人・竹中半兵衛の嫡男、
重門とともに戦った。
戦場での働きもさることながら、
事前に吉川広家、小早川秀秋と交渉し、
味方につけたという功績も大きい。

「赤備え」で知られる井伊直政。
福島正則との先陣争いがよく語られるが、
戦いの前には
京極高次や竹中重門を東軍に寝返らせ、
また戦後は、
毛利や島津との和平交渉に当たった。

しかし直政は、関ヶ原の戦いから2年足らずで病死してしまう。
東軍にも戦後は恵まれなかった武将が何人かいる。
直政死去と同じ年に小早川秀秋も病死しているし、松平忠吉も若くして世を去った。
福島正則は広島50万石の大名となったが、晩年に信濃の高井野4万5千石に改易された。

最後は徳川家康の陣。
生首を担いだ兵士がいるのが、
戦場のリアリティである。

家康の陣の入口で、若き日の大久保彦左衛門が警備をしていた。
若いといってもこの時点で既に40歳だったが。

家康とその家臣たちが集まって、
首実検を行なっている。
湯浅五助の首が置かれていた。

ここまで見終わって、帰り道に再び武田信玄の「ノーモア関ヶ原」を見ると、
さっきとはまた違った思いに駆られる。
戦いで多くの人々が命を失い、
あの日の関ヶ原には、数千もの遺体や首が転がっていたということだ。

あと、全て見終わると、最初に見た毛利諸隊の「完全に蚊帳の外」感がよくわかる。

資料館へ。団体さんの食事処になっていたが、周りの展示の一部を見られた。
びっしり書き込まれた年表。各武将の陣跡の写真。
東軍西軍の大名の領地を色分けした日本地図。戦場の大きな立体地図。

輪投げやストラックアウトといった、ちょっとした遊戯も。
輪投げをやるお客さんがけっこういた。

団体さんが多数訪れたり、海外からもお客さんが来たり。
関ヶ原ウォーランドはいまや、B級スポットというより一流の観光スポットだ。
実際に展示を見てみると、そうなってしかるべしといった印象。
ここでしか経験できない、戦いのリアリティが体験できた。

関ヶ原ウォーランド

売店もたいへんなにぎわい。
レストランで飛騨牛を食べようと考えていたが、混雑している。
(ウォーランドには寄らず、売店とレストランだけ訪れるツアー客も多い様子)

隣の宝蔵寺というお寺も、
関ヶ原ウォーランドの初代館長、
谷口玉泉氏が建てた。
関ヶ原の戦いの戦没者を慰霊する寺だ。

ウォーランドが開館したのは1964年。
これだけ有名な古戦場でありながら、
関ヶ原には戦没者を供養する施設も、また合戦のことを後世に伝える資料館もなかった。
(当時まだ関ケ原町歴史民俗資料館はなかったようだ)
そのことを嘆いた谷口氏の父親の遺言がきっかけで、ウォーランドは造られたらしい。

雪のように真っ白な白衣観音が建つ。

お寺の前に、
「祈ノーモア関ヶ原合戦」
と刻まれた碑がある。
お寺の真正面に大型バスが止まったので、
この角度からしか撮影できなかった。

午後2時40分、関ヶ原ウォーランドを後にする。

柿の木に実がびっしり。
そういえば美濃は柿の産地だが、
遂に1回も食べられなかった。

今度は早めに国道365号に出るルートへ。
さっきは国道から分かれて西へ進んだが、同じ所から今度は東へ。

すぐに、石田三成が陣を張っていた
笹尾山のふもとに着いた。
せっかく来たから見ていこう。
このふもとあたりが島左近の陣跡。

馬防柵が巡らされた、緩やかな山道を上る。
紅葉が真っ赤。
この表現は今まで避けてきたけど、
本当に血のような赤い色だ。

階段を上ってさらに上へ。旅の4日目でこの上りはきついが、

ほんの3、4分で、
石田三成の陣地に到着した。

関ケ原全体がよく見渡せる。
本当に関ケ原が、
山に囲まれた平地だということがよくわかる。

ここには各隊がどこにいたかを示すマップがあるのだが、
実際に見える景色とかなり異なっていて、どれがどの山か、今一つわかりにくかった。

赤い陣羽織をはおった、若い女性がたたずんでいる。
背中に大きな違い鎌の紋。小早川秀秋か?

三成陣跡から下りてちょっと歩く。
田圃の中にぽつんと立っている石碑とのぼり。
最後の激戦が行なわれた、
「関ヶ原古戦場決戦地」である。

静かでだだっ広い農地だが、かつてここで何万という兵士が戦った。
今の風景からその状況を想像するのは難しい。

笹尾山は指呼の間であり、
ここで東軍が優勢になってしまえば、
三成はもう成す術なかっただろう。

駅まで戻ろうと少し南に歩いたところで、
ふと振り返る。
笹尾山の後ろに2つの山がそびえる、
自然豊かな風景だった。

歩いてみると、陣場野まで大した時間はかからなかった。
家康も最後は戦の最前線に近い所まで来ていたのか。

午後4時9分、関ケ原駅に戻ってきた。
次の下り電車は4時19分発だが、
駅前の観光交流館でおみやげを買うので、多分この電車には乗れないと思う。

歴史民俗資料館でもそうだったが、おみやげの種類は非常に多い。
ただし、個々の武将にちなんだ物が大半。

関ケ原という土地の名前がついた物は、関ヶ原せんべい、関ヶ原ラスクなど。
あと、美濃名産の柿を使ったゼリー。「胆の毒ゼリー」という名前がついている。
これは石田三成が東軍に捕まったときの逸話にちなんだ名前。

三成が京都で引き回されている途中、干し柿が差し入れられたが、
三成は「痰(胆)の毒」だからと言って食べなかった。
これから死刑になる者が健康に気を遣うのはおかしい、と役人に言われると、
「大義を思う者は首をはねられるときまで命を大切にする」と答えたという。

福島正則の陣に、関ヶ原の戦い当時から生えている杉の木の、
折れた枝から作ったというストラップを買った。
この杉は樹齢800年で、関ヶ原の戦いの頃には既に大木だったそうだ。
関ヶ原合戦図屏風にも描かれている。
当時から現在まで生きている人間はいないが、生きている木はある。不思議なものだ。

大谷吉継をイメージした鎧が展示されていた。

案の定、午後4時19分の電車には間に合わなかった。
観光交流館から出たときに、ちょうど電車がホームを離れるところだった。

次の下り電車は4時49分発。30分待つ。
この先、伊吹山がよく見える、美しい車窓風景の期待できるルートなのだが、
日が暮れる前に通れるかどうか。

快速米原行き。313系6両。クロスシート。
駅を出てしばらくは掘割を進む。左手は中山道だからか家が多い。
川を渡ると少し高い位置に出た。左の町並みが俯瞰気味に見える。右はやや高い所に森。

トンネルを1つ抜けると左手に道路が並行。その向こうに家並み。
どうやらこのあたりで県境を越えたようだ。

スタートから1道1都14県め、滋賀県に到達!

やがて左右とも山の中となる。ひらけてきたところが柏原。
右に見える山が伊吹山か?
山は見えるが、暗くて写真が撮りづらい。

柏原駅を出発。右側の農地の向こうに再び山が見えた。
すそ野を新幹線が通り過ぎた。再び家が増える。近江長岡駅停車。
近江長岡を出るとまた山の中。暗いので、右に並行する道を走る車のライトが目立つ。
午後5時4分、醒ケ井駅着。ここで降りた。
ゲーム路銀 ¥2,330-¥320=¥2,010


〜柏原(かしわばら)〜近江長岡〜
醒ケ井(さめがい)

ホームから山が見えたので撮影。
どうやらあれが伊吹山っぽい。

ゲーセン紀行では久々に、自動改札じゃない改札を通る。
TOICAのエリアは関ケ原まで、ICOCAのエリアは米原からで、
この駅ではどちらも使えない。

すっかり暗くなった。
できれば今日、醒ケ井宿を歩きたかったが、
これじゃ無理。

駅前にある、
「醒井水の宿駅」という建物に入ってみた。

1階の、産直野菜やお菓子、おみやげが売られている店へ。
柿が多い。甘柿と渋柿、両方売ってる。大根も多い。
あと、ひこにゃんグッズがあった。滋賀県に入ったことを実感。

地蔵川の梅花藻(バイカモ)ストラップを買った。
この地で有名な植物のようだ。

お店の中に湧き水が出ている。
ペットボトルで「居醒の清水」という水が売られていた。
神話の時代、ヤマトタケルが伊吹山の神の猪(または蛇)と戦って負傷した際、
この地の水を飲んで回復したという伝説があるらしい。
以来この水は「居醒(いざめ)の清水」と呼ばれている。
「醒井」という地名もこれに由来する。

醒井水の宿駅

外へ出た。今回のゲーセン紀行はこれにて終了。
車と信号と街灯の光しか見えないこの町が、
次回来たとき、どのように変わっているのか楽しみだ。

午後5時38分発の新快速・豊橋行きに乗って、大垣へ帰る。
垂井まで座れなかった。6時4分着。


大垣

朝からあんパンしか食べてない。
アクアウォークに直行して、宇和島鯛めしとローストビーフを食べる。
ゲーム制作のための取材で、夏に四国へ行った際に食べた宇和島の独特な鯛めしに、
また出会うことができて良かった。
鯛の刺身を、卵や醤油などで作ったタレにつけ、ご飯に乗せるタイプ。

さらにフードコートへ行き、スガキヤのキャラメルソフトクリームを食べる。

今日は午後7時30分頃という早い時間に、ホテルに帰ってくることができた。
でも関ヶ原の戦いについて復習してたら、午前4時になってしまった。


翌日(11月30日)。9時半に起きる。5時間半しか寝ていない。眠い。

ホテルをチェックアウト。
駅のロッテリアで、濃厚6種チーズ絶品チーズバーガーを食べる。

去年(2014年)、養老の滝に行った際、死ぬかと思うくらいバテバテになったのだが、
東京へ帰る前に、途中でこのロッテリアに立ち寄って、
心臓が落ち着くまでしばらく休んでいた。

さて今日は東京へ帰る日。心臓は大丈夫だけど疲れてるとは思う。
11時42分発の米原行きに乗る。
昨日暗くてよく見えなかった景色を、もう一度見ることにしよう。
今日はよく晴れていて、荒尾駅のあたりからもう伊吹山が見えている。

トンネルに入るより手前で、新幹線の線路をオーバークロスしていた。
昨日は暗かったので気がつかなかった。

柏原駅のホームから、
昨日撮れなかった伊吹山を撮影。

さらにその先、伊吹山が
右の車窓いっぱいにどんと構える。

伊吹山より手前にある山々が、淡く黄色く色づいているのもいい。

12時16分、米原駅着。
向かいのホームに、JR西日本の電車が止まっていた。
223系の新快速・姫路行き。いよいよ次回からJR西日本のエリアに入るのだ。

次回来たときのために、駅と駅前をロケハンする。
米原駅に戻り、新幹線を待っていたとき、
待合室のテレビで水木しげる先生の訃報を知る。
去年の年末、境港の水木しげる記念館に行っていた。

午後1時24分発のこだまで帰る。
近江牛大入飯を食べた。その後ぐっすり寝た。
危うく寝過ごすとこ。よく新横浜で降りられた。

現在のゲーム路銀
¥2,010

今回のルート






関ケ原観光協会  岐阜県観光連盟
米原観光協会  長浜観光協会  びわこビジターズビューロー(滋賀県)
JR東海  JRおでかけネット(JR西日本)  近江鉄道

次回、「日本縦断ゲーセン紀行 210.滋賀編(1)」では、
遂にJR西日本エリアへ突入!
「日本縦断ゲーセン紀行 208.岐阜編(5)」に戻る


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