ゲイムマンのダイスステーション

日本縦断ゲーセン紀行

211.豊臣秀吉初めての城
〜滋賀編(2)〜


スタート時点での「ゲーム路銀」は、「ゲーセン」にちなんで¥5,000(G千)。
ゲーセンでゲームをプレーして、1面クリアーするごとに、
「ゲーム路銀」は¥100ずつ増える。
(ただし、1プレー¥50円のゲームなら¥50ずつ、1プレー¥200なら¥200ずつ。
 ゲームをプレーするためのお金も、「ゲーム路銀」からねん出する)
この「ゲーム路銀」だけを交通費にして、日本縦断を目指すのだ!
(前回までのゲーム路銀 ¥1,610




2016年4月24日。8時起床。5時間睡眠。ホテルで朝食。
今日は本格的に長浜を回るが、今日1日では回り切れなさそう。
次回来るときは夏になりそうなので、
今日は屋外施設を中心に回り、冷房の効く屋内施設は次回に回したい。

米原のホテルをチェックアウト。荷物を預かってもらう。今日は曇っている。
予定より1本早い9時47分の電車に乗れた。
12両編成を切り離して、前4両だけ長浜行き。223系。クロスシート。
長浜止まりだからか日曜の朝だからか、割と空いてる。

今日は長浜びわこ大仏の写真を撮れた。


長浜

9時56分長浜駅着。
この電車は折り返し姫路行きになる。

よく見るとこの車両、SLのデフレクタみたいな板がついている。
(※もちろんデフレクタなわけはなく、これは転落防止幌。
ここは米原駅で切り離されるまでは中間車両だった)


駅の観光案内所でパンフレットをもらう。

西口のエスカレーターを下りる。
「秀吉がつくったまち長浜」という壁画あり。
豊臣秀吉が長浜城を造ったことで、
長浜は城下町として発展した。

西口側から駅全体が見える。

今日はまずその長浜城へ行こう。
お城の天守閣は屋内施設だけど、周りの城跡は豊公園(ほうこうえん)という大きな公園。

長浜城は江戸時代に廃城となったが、
1983年(昭和58年)に天守閣が再建された。
中は長浜城歴史博物館になっている。
(入館料¥400)

2階と3階が展示室になっている。まずは2階へ。
企画展の五月人形展。神功皇后と武内宿禰、八幡太郎義家の人形。
義家や、鯉の滝登りの掛け軸。

立身出世の縁起物として、秀吉の人形や掛け軸もあるが、
それとともに加藤清正の人形と軸もあった。
清正が秀吉に仕えるようになったのは、秀吉が長浜城主だった頃。
清正といえば、後に熊本城を築いた武将だ。

いわゆる「地震加藤」を描いた錦絵もあった。
1596年(文禄5年)、京都を中心に発生した地震(慶長伏見大地震)により、
豊臣秀吉が当時住んでいた伏見城(指月伏見城)が倒壊した。

加藤清正はこの頃、文禄の役における明・朝鮮との講和条件を巡って、
小西行長や石田三成と対立し、秀吉の怒りを買って謹慎中だったが、
秀吉のことを心配して真っ先に伏見城へ駆けつけ、謹慎を解かれたという。

実際には、清正は当時伏見に住んでいなかったので、
“真っ先に”駆けつけることは不可能だったようだ。
そもそも謹慎中というのも疑わしいらしいのだが……。

今度の熊本のほうも、清正公のご加護で一日でも早く復興してほしいと願う。

ちなみに、このとき倒壊した指月伏見城は、長らく遺構が発見されていなかったが、
去年(2015年)マンション建設予定地から遺構と瓦が発見され、場所が特定された。

五月人形展にはそのほか、よろいかぶとなどの五月飾りや、鍾馗(しょうき)さんの図も。

続いての展示は賤ヶ岳(しずがたけ)合戦図屏風。
羽柴(豊臣)秀吉と柴田勝家が戦った賤ヶ岳は、ここから少し北の方。
屏風には近くの余呉湖も描かれている。

賤ヶ岳の戦いに関連して、
秀吉と勝家、“賤ヶ岳の七本槍”の片桐且元、脇坂安治の画像(肖像画)、
そして糟屋真雄(武則)の槍の実物を展示。
加藤清正の画像もある。清正も七本槍の一人だった。

この戦いの前に、秀吉が各地の武将に根回ししていた書状もあった。
宇喜多秀家に宛てた戦況報告の手紙や、
前線の羽柴秀長に指示を出す手紙も。

この階の展示の最後は、長浜曳山まつりの曳山の模型と、
特別展示として、直江状の現存最古の写し。
直江状とは、上杉景勝の上洛を求める徳川家康に対し、
景勝の家老・直江兼次が書いた拒否の手紙。家康が会津征伐を行なうきっかけとなった。

長浜城歴史博物館

3階は常設展示「秀吉と長浜」。
長浜城築城の様子を再現した大きなジオラマが目を引く。

浅井氏三代について(亮政、久政、長政)。
亮政の時代、京極氏の家臣から勢力を伸ばして戦国大名となる。
六角氏に敗れて一時従属したが、長政の時代に六角氏を破った。
しかし織田信長と敵対し、姉川の戦いで信長に敗れて以降没落した。
長政は、信長の妹・お市の方の夫としても知られる。

1573年(天正元年)、浅井氏は滅び、北近江三郡は羽柴秀吉に与えられた。
秀吉は翌年、今浜村を長浜と改名してここに長浜城を築き、
拠点を浅井氏時代の小谷城から長浜城へ移した。
また、長浜を年貢免除地としている。

本能寺の変のとき、秀吉の母・なか(大政所)と、
秀吉の正室・おね(北政所)が長浜にいたが、西美濃に逃れている。
長浜城は明智光秀に味方した京極高次が占拠したが、
間もなく山崎の戦いで光秀勢は滅亡。高次は逃亡した。

京極高次が明智側で戦っていたことを、私は知らなかった。
高次がその後かなり出世しているだけに、意外だった。

映像展示で、姉川の戦いと長浜築城について、現代の現地の風景とともに説明。
石田三成など、この地で新たに召し抱えられた秀吉の家臣も多い。
長浜の人々が秀吉をまつった豊国(ほうこく)神社や、
長浜城の鬼門に建てられた知善院についても触れられている。

そのほか、国友の鉄砲、秀吉の画像など展示。
大垣城ゆかりの「おあむ物語」もあった。
最後は秀吉、おね、浅井長政のモンタージュボイス(合成音声)。

4階は、小堀遠州(長浜出身)が興した遠州流茶道の茶室がある。
有料なので入らず。

長浜城歴史博物館

5階が展望台。曇っているが、遠くの山もうっすら見えた。

北側、マンションの左に賤ヶ岳合戦場。
右に虎御前山、その右に小谷城址。

金糞岳を挟んで東側へ。

姉川の合戦場はマンションの向こう。
伊吹山も見えるが、写真に写るかどうか。

2008年の春に来たとき撮った写真。
このときは伊吹山がくっきり。

山脈のややへこんでいるあたりが関ケ原か。
モンデクール長浜や、鉄道スクエアも見える。

豊公園は南へ続く。
ホテル群を挟んで琵琶湖。
対岸に長浜ドームが小さく見えた。
(この写真では見えないけど)

そして西側は、
視界いっぱいに琵琶湖が広がる。
いい眺め。

ここは晴れてきたが、遠くが曇っているのか、対岸は見えない。

右端に竹生島があるらしいが、
どこだかわからなかった。
でも琵琶湖の景色は素晴らしかった。

長浜城歴史博物館

豊公園(ほうこうえん)を歩く。
ツツジがきれい。

かつて天守があったのは、今の天守閣の裏手。
そこに秀吉の像が建つ。

近くにはシャガの花。

石碑によると、この城を築く際、
おかねという女性が人柱になったという伝説があるらしい。

半分水に浸かった太閤井戸。

湖だけど穏やかに波が打ち寄せる。

天守閣の南側には、いくつかの石碑や、
長浜市(旧虎姫町)出身で運輸大臣や近鉄社長を務めた村上義一氏の像。

この公園は桜の名所なのだが、私の仕事の都合で、開花している間に来られなかった。

1本の八重桜が、美しく咲いていた。

華やかな噴水。

そして花壇。

アウクスブルク市との姉妹都市提携50周年碑。
ルドルフ・ディーゼル博士と、ヤンマー創業者・山岡孫吉の写真が入っている。

山岡はドイツでディーゼルエンジンの優秀さに目をつけ、
帰国後、小型ディーゼルエンジンの開発に成功。

後に再びドイツを訪れた山岡は、
既に亡くなっていたディーゼルの顕彰碑が母国ドイツにないことを知り、
彼が少年期を過ごしたアウクスブルクに、記念庭苑を寄贈した。

このことがきっかけとなって、ヤンマーの工場がある長浜市(および尼崎市)と、
アウクスブルク市は姉妹都市になった。

公園の中央に駐車場がある。
事前にGoogle Mapで見たら野球場のような形だったスペースか。
周りを藤棚が囲む。花は咲いているが、時期が若干ずれたのか、あまり目立たなかった。

豊公園を出て、続いて向かうのは、
明治天皇の行在所(あんざいしょ)として建てられた慶雲館。

慶雲館入口の真向かいに、
長浜鉄道スクエアがある。
開業当時の長浜駅舎が見える。
現存する日本最古の駅舎である。

今日は屋外施設を中心に回りたいので、長浜鉄道スクエアに行くのは次回にしよう。
長浜鉄道スクエア

慶雲館に入る。
前庭に、巨大な石灯ろうがある。
高さ5メートル、推定重量20トン。

巨大な松尾芭蕉の句碑。
明治後期のもので、高さはやはり5メートル。
「蓬莱にきかはや伊勢の初たより」
蓬莱とは正月飾りのことらしい。

巨大な横綱像。
明治期に活躍した、第19代横綱・常陸山。
慶雲館を建てた浅見又蔵がひいきにしており、
この館にも常陸山は、
ライバルの梅ヶ谷とともに
たびたび訪れていたそうだ。

中門をくぐると、さらに巨大な慶雲館碑。
浅見又蔵が亡くなった翌年の
1901年(明治34年)、
又蔵を称えるために建てられた。

ようやく本館へ。(入館料¥300)

慶雲館は1887年(明治20年)、地元の豪商・浅見又蔵が建てた。
明治天皇・昭憲皇太后両陛下が長浜を訪れることが決まったため、
その行在所として急きょ造られた。
又蔵は長浜に学校、銀行、鉄道、汽船をつくり、町の発展に貢献した人物。

大広間で庭を見ながらしばし休息。広間は4部屋くらいに仕切ることもできる構造。

庭は二代目又蔵が1912年(明治45年)に造営。
作庭は七代目小川治兵衛。

ここにも巨石や大きな石灯ろうが配され、ぜいたくな造りだが、
それでいて松の緑が落ち着いた雰囲気を醸し出す。

冬場は梅の盆栽の展示会「長浜盆梅展」で有名らしい。
もちろん今は梅の季節ではないが、桜の盆栽が展示されていた。

それにしても、3ヶ月で建てたとは思えない、立派な建物だ。
現代までこうして残っているくらい丈夫だし。

建て増しされた「梅の館」は現代の建物。盆梅展の写真が展示されていた。

慶雲館

両陛下が滞在された玉座の間がある本館2階へ。

ここから見える庭は、
1階から見たのとはまた趣が異なる。
池を見下ろせる(今は水がないけど)。

鶴のふすま絵、梅の形の照明。
「天行健」と力強く書かれた、1913年(大正2年)の犬養毅の書。

1階に戻ってきた。
最後に、庭に出て
慶雲館の建物を外から眺める。

館を出たところに、
青々とした梅の盆栽が並んでいた。
1年間育てて、
また来年の盆梅展に備えるのだそうだ。

慶雲館

豊公園内の小動物舎を見ていなかったことに気づいたので、
公園に戻って猿を見た。

駅の東口へ移動。昨日見た秀吉三成出逢いの像のある角からまっすぐ東へ。
私が長浜に来たのは2度目だが、前に訪れたのは長浜城と鉄道スクエアだったので、
こちら側に来るのは初めて。

道の右側に開知学校。
浅見又蔵が設立した小学校だ。
1874年(明治7年)築。
長野県松本市の開智学校と名前が似ているが、
関連はない。

そして道の左側にそびえる、
インパクトのある建物が、
B級スポットとして知られる
長浜タワービルだ。

過剰な装飾と、激しい色あせから
漂う無国籍感。
「TOWERBILL」の文字が、
カオスっぷりに拍車をかける。
B級スポット紹介サイトのほとんどが、
このスペルにツッコミを入れている。
(側面にはちゃんと
「Nagahama Tower Building」と
表記されている)

ビルの上に立つタワー。
昭和中期の人がイメージするような
電波塔の形だ。
もちろん電波は飛ばさないし受信もしない。

長浜タワービルが建てられたのは1964年(昭和39年)。
老朽化が進んでいると思われるので、あと数年したら取り壊されるかもしれない。
存在するうちに来られて良かった。

角を曲がって北へ。
ここの交差点、車も人も多く、しかも観光地なのに信号機がない。

この道が北国街道。
うだつのついた町家が並び、
想像していた以上に素晴らしい町並みだ。

時刻は午後2時30分。お腹が空いたので、焼鯖そうめんを食べる。
町家のお店の2階のお座敷。なかなか盛況だ。

以前長浜へ来たとき、駅の食堂でラーメンを食べ、
間違って「これが本場の長浜ラーメンか」と思ったものだが、
本当の長浜名物の麺はこの焼鯖そうめん。

かば焼きのように味が染みた焼きサバと、つゆが染みて茶色いそうめん。
不思議なことに、このそうめんがご飯に合う。炭水化物と炭水化物だが。

午後3時を過ぎた。
黒壁スクエア・黒壁ガラス館前の交差点、
というか辻を曲がって東へ。

黒壁スクエア

曳山の絵が目立つアーケードに入る。
大手門通り。

海洋堂のフィギュアミュージアムがあるが、ここに入るのはまた今度にする。
夏場に来れば多分ここで涼めるだろう。
海洋堂フィギュアミュージアム黒壁 龍遊館

この向かいに、「長浜ラーメン」と書かれた店があった。
ここは本当に滋賀の長浜なんだろうかと一瞬不安になった。

近くにある曳山博物館を訪れるのもまた今度にしよう。
長浜曳山まつりに出てくる、曳山の実物が展示されているらしい。
曳山博物館

川を渡ってさらに東へ。アーケードを出てさらに東へ。
日曜日だからかもしれないが、今朝から若いカップルの姿をよく目にする。

長浜八幡宮にやってきた。
石灯ろうが立ち並ぶ参道。
途中に松尾芭蕉の句碑がある。
(をりをりに伊吹を見てや冬籠)

長浜八幡宮は1069年(延久元年)、
源義家(八幡太郎)が京都の石清水八幡宮から勧請して造られた。
一時荒廃していたが、羽柴秀吉が再興した。
御祭神は八幡神と同一視される応神天皇と、その両親の仲哀天皇、神功皇后。

長浜曳山まつりは、この神社のお祭り。先週ここに来ていれば曳山まつりが見られたはず。
長浜城の桜もそうだが、仕事の都合でベストな時期に来られなかったのがちょっと残念。

参拝。本殿の手前に独立した拝殿が建つ。

隣に小さなお社がある。高良(こうら)神社。武内宿禰(たけうちのすくね)をまつる。
景行天皇から仁徳天皇まで5代の天皇と神功皇后に仕えた大臣で、
たいへん長生きしたことから、健康長寿の神としてまつられている。
かたわらに、小さな丸いくぼみがいくつもあいた石がある。「ぼけ封じ大石」だそうだ。

舎那院。もとは長浜八幡宮の別当寺だった。
この本堂の奥に、古い護摩堂が建つ。

八幡宮に戻る。
放生池と都久夫須麻(つくぶすま)神社。
毎年8月15日に、蛇の舞が行なわれるそうだ。

そのほかの摂末社にも参拝。
天満宮、熊野神社・地主神社、河濯(かわそぎ)神社・金刀比羅宮、そして稲荷大神。

長浜八幡宮

長浜八幡宮を出て西へと戻る。
薄く平たい信号機があった。
確か、醒ケ井駅前の信号機も
このタイプだったはず。

※私は今回の旅で初めて見たけど、数年前から全国的に普及しつつあるらしい。

狐のオブジェが建つ角を曲がって北へ。

赤い和傘が並ぶ参道を通って、
大通寺(だいつうじ)へと向かう。
狐はこのお寺の守り神だとか。

立派な山門がそびえる。
大通寺はもと長浜城内にあったが、
江戸時代初期、当地に移されたそうだ。

移された年は、このお寺にある2つの説明板にそれぞれ、
「慶長11年(1606年)」と「慶安2年(1649年)」という
異なる年号が書かれていて、よくわからない。

山門は1812年(文化9年)にほぼ完成したが、
上棟式が行なわれたのはかなり後の1839年(天保10年)。

本堂は、伏見城の建物を
移築したものと伝えられている。
重要文化財。

本堂の前に、「本日の拝観は終了致しました」との貼り紙が。
もう少し早い時間に来れば、中で参拝できたのか。
ここにもまた今度来なけりゃならない。

本堂と、大広間の玄関が橋で結ばれている。
大広間も伏見城の遺構らしい。

台所門は、
もと長浜城の大手門だったと伝えられる。
今の山門ができる前はこちらが山門だった。

真宗大谷派長浜教区(大通寺)

今日最後に回る予定だった知善院へ。
長浜城の鬼門を守るため、
小谷城から移されたお寺。
境内には入れたが、本堂は閉まっていた。

このお寺の門も長浜城から移築されたといわれている。
確かに大通寺の台所門とよく似ている。

さっきの大手門通りの1本北側、ゆう壱番街というアーケード商店街へ。
巨大な万華鏡があるらしいが、細い道を少し歩いても見えなかったので、
また今度来たときにあらためて探そう。

北国街道を南へ。黒壁スクエアの前を通り、もと来た道へ戻る。
開知学校と長浜タワー。
駅前のモンデクールでおみやげを買う。抹茶クッキー。

長浜駅到着午後5時14分。今回のゲーセン紀行はここまで。
結局昨日も今日もゲーセンに行けなかったけど。
5時29分発の播州赤穂行きに乗る。よかった、座れた。
5時43分、米原着。ホテルで荷物を受け取る。

6時24分発の上りこだまに乗車。名古屋でのぞみに乗り換える。
隣にきれいな女性が座っていたので、失礼のないように、緊張しながら牛肉弁当を食べた。
8時24分、新横浜着。

現在のゲーム路銀
¥1,610

今回のルート




長浜観光協会  びわこビジターズビューロー(滋賀県)
JRおでかけネット(JR西日本)  JR東海  近江鉄道

次回、「日本縦断ゲーセン紀行 212.滋賀編(3)」は、
2年も空いたけど再び長浜へ。
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