ゲイムマンのダイスステーション

日本縦断ゲーセン紀行

221.豊臣秀次と恋人の聖地
〜滋賀編(12)〜


スタート時点での「ゲーム路銀」は、「ゲーセン」にちなんで¥5,000(G千)。
ゲーセンでゲームをプレイして、1面クリアーするごとに、
「ゲーム路銀」は¥100ずつ増える。
(ただし、1プレイ¥50円のゲームなら¥50ずつ、1プレイ¥200なら¥200ずつ。
 ゲームをプレイするためのお金も、「ゲーム路銀」からねん出する)
この「ゲーム路銀」だけを交通費にして、日本縦断を目指すのだ!
(前回までのゲーム路銀 ¥1,450




近江八幡

2018年10月22日。8時起床。睡眠時間5時間。
ホテルをチェックアウトし、荷物を預かってもらう。
朝マックを食べ、9時45分発、長命寺経由休暇村行きのバスに乗る。
今日も快晴で、過ごしやすい気候。

9時49分、小幡上筋バス停で降車。少し戻って小幡上筋交差点へ。
今日はここからスタート。

新町通りを北へ進む。昨日も何度か目にしたが、
道端にお地蔵さんをまつるほこらがある。

町家の建物が並ぶ新町通り。
ベンガラ塗りの赤い町家も何軒かある。

昨日訪れた旧伴家住宅、市立民俗資料館の脇を通過。
月曜定休のはずだが、オンシーズンだからか開いていた。

さらに北へ。見越しの松がいい感じ。

さすがに観光客は昨日より少ないが、
東西にのびる広い通りに出ると、団体さんを何組か見かけた。

今日最初に訪ねるのは、
近江兄弟社メンターム資料館。
(入場無料)

ウィリアム・メレル・ヴォーリズが日本に来て、最初に住んだのがこの場所だった。
当時は県立商業高校の英語教師だったが、放課後ここでバイブルクラスを開いたそうだ。

近江兄弟社の本社の一室が資料館になっている。
同社の商品と、創業者ヴォーリズの足跡を紹介。

近江兄弟社は1920年から、メンソレータムを輸入販売。後に自社製造していたが、
1974年に一度倒産してしまい、製造販売権を失う。
(その後メンソレータムはロート製薬が販売権を取得し、今日まで製造販売している)
翌1975年から、メンタームの販売を開始した。

メンソレータム時代の古い缶や箱が展示されている。
リップスティックもこの頃からあったのか。

かつて出ていた、いろんな類似品も展示されていた。
どれも「メンタム」「メンターム」という名前だが、近江兄弟社の製品ではない。
確かに私が子供の頃、「メンタム」は軟膏を表す普通名詞と化していた感がある。
(私が子供の頃は、ちょうど販売権がロートに移った頃だったが)
だから近江兄弟社は、「メンターム」を商標登録していたんだろう。

近江兄弟社

メンタームキッドの飛び出し坊や。

創業者ウィリアム・メレル・ヴォーリズの足跡がパネルで紹介されている。
ヴォーリズは1880年、アメリカ・カンザス州レブンワース出身。
1905年、滋賀県立商業高校(現・県立八幡商業高校)の英語教師として来日する。
放課後のバイブルクラスが人気だったが、2年で解職となる。
(本願寺別院があるくらい仏教の強い土地だったので、宗教対立があったそうだ)

しかしその後も近江八幡に留まり、1910年にいったん帰国したあと再来日。
ともに来日した建築家レスター・チェーピン、教え子の吉田悦蔵と3人で、
「ヴォーリズ合名会社」を設立。建築設計監理を行なう。

この仕事の中で建築設備部品を輸入する機会が多く、
ここで県立商業高校出身の、近江商人たちの知識が大いに役立つ。
やがて近江セールズ(現・近江兄弟社)の設立につながった。

故郷カンザス州でA.A.ハイドと親交を深めたことをきっかけに、
ハイドが開発したメンソレータムを輸入。これが大当たりした。

メンソレータムを国内で生産する体制になった際、
女工さんに働きながら学べる場を提供するため、女学校を開設。
以前から妻・一柳満喜子が行なっていた幼児教育と合わせ、
後の近江兄弟社学園(現・ヴォーリズ学園)設立につながる。

ヴォーリズはまた、キリスト教の伝道や、医療活動にも力を注いだ。

第二次世界大戦勃発の少し前、日米関係が険悪になるが、
ヴォーリズは日本に留まる道を選び、
一柳米来留(ひとつやなぎ・めれる)の名で日本に帰化した。
そして1964年に亡くなるまで、近江八幡で活動した。

ヴォーリズが亡くなった後も、
彼の遺した近江兄弟社とヴォーリズ学園は活動を続けている。
また彼が設計した、数々の建物が現存している。
(京都・東華菜館、大阪・大丸心斎橋店、
神戸・旧居留地38番館、東京・山の上ホテルなど)

近江兄弟社

メンターム資料館を出て、
白雲館で少しだけ休憩。

真向かいにある、
日牟禮(ひむれ)八幡宮の鳥居をくぐる。

白雲橋を渡る。
八幡堀の眺めは今日も美しい。

右手に日牟禮八幡宮があるが、
いったん通り過ぎる。
まず正面の山へ向かおう。


公園前

八幡山ロープウェーの公園前駅。
ロープウェーに乗って山頂を目指す。

なお、ゲーセン紀行としては、再びここに戻ってくるまでを番外編とする。
ロープウェーの往復運賃¥880をゲーム路銀から引いてしまうと、
余裕がなくなってしまうので。
ただし、もしロープウェーの山頂駅にゲーム筐体があった場合、
それをプレイしてもゲーム路銀への加算はない。
昔はたまにロープウェーの駅で、古いゲーム機を見かけたもんだけど、ここではどうか?

ロープウェーの切符を買う。
通常なら往復運賃¥880なのだが、10月26日までの期間限定で、30%OFFの¥620だった。
八幡山ロープウェーを運営する近江鉄道は、西武鉄道系列の企業。
埼玉西武ライオンズが優勝したことを記念しての割引だった。

……まさに昨日、ライオンズはクライマックスシリーズで4敗目を喫し、
ソフトバンクホークスの日本シリーズ進出が決まったばかり。
……何とも言えない。

ロープウェーは15分おきに来る。次は11時15分。
待ってる間に売店を見る。
赤こんにゃく、ちょうじ麩(ふ)、でっち羊羹(ようかん)、えび煎餅(せんべい)、
伊吹牛乳サブレ、ひこにゃんストラップ、あとなぜかパインアメ。
(※パインアメの工場が滋賀県草津市にあるらしい)

ロープウェーに乗る。
搬器に近江鉄道の鉄道むすめ
「豊郷あかね」が描かれている。
ちょうど団体さんがいなくなって、
空いている。

出発。高い建物がないので、近江兄弟社の本社や、本願寺八幡別院が目立つ。
駅前のあたりに、大きな建物が密集している。その向こうは山。
左に赤い屋根の建物群がある。あれが多分ヴォーリズ学園。
町の左右には農地が広がる。


八幡城址

4分後、八幡城址駅に到着した。ゲーム機などは特にない様子。
駅名のとおり、ここはかつて豊臣秀次の居城だった八幡山城の跡。

本丸の跡地に建つ瑞龍寺へ行ってみよう。
「お願い地蔵堂」から階段を上がる。
城跡なので石垣が立派。このへんのモミジはまだ緑。

山門から本堂へ向かう。

門の左右にも石垣。

瑞龍寺本堂。
江戸時代の建物だが、
最初からここにあったわけではない。

1585年(天正13年)に八幡山城を築いた秀次は、5年後清洲城へ移るが、
さらに5年後の1595年(文禄4年)に切腹させられた。
このときに、秀次ゆかりの八幡山城も廃城となる。

秀次の母(秀吉の姉)の日秀尼は、秀次の菩提を弔うため、
京都の村雲という場所に寺を建立した。それがこの瑞龍寺である。

このとき村雲の土地や寺号などを与えたのが、日秀尼の身をあわれんだ後陽成天皇だった。
そのため瑞龍寺は、日蓮宗の寺としては唯一の
門跡寺院(皇族や公家が住職を務めた寺院)となっており、
「村雲御所」という別名がある。

1788年(天明8年)、「天明の大火」で焼失したが、後に今出川堀川で再建。
八幡山城跡に移されたのは1961年(昭和36年)。

本堂の中に入って参拝(拝観料¥300)。
尼さんがお勤め中。

菊の御紋と橘紋(日蓮宗の紋)が入った扉の先の渡り廊下へ。
日蓮上人御一代絵巻が架かる。

中庭に、小石が「法妙」の字の形に並べられている(右から読むと「妙法」)。
かつてここには防空監視所が置かれていたらしい。
戦後永らく瓦礫の山だったのを、12世貫首・日英尼の時代に整備したそうだ。
(移築時の貫首は11世・日浄尼だったが、完成前に遷化してしまう。
瑞龍寺はしばらく無住だったが、1968年に入山した日英尼が再建した)

廊下の先にある宮御殿(雲の間)に、BIWAKOビエンナーレの現代アートが並んでいた。
三木サチコ氏のマンガチックな作品。
藤田マサヒロ氏の、仏像の頭部を人形焼の型のように凹像にした作品。

さっき、八幡山ロープウェーの公園前駅に、
この作品の一部が展示されていた。

秀次公の像が建つ。先ほどの尼さんがお参りしていた。
かつて茶室だったという仏間には、妙見大菩薩と日蓮上人がまつられていた。

八幡山ロープウェー

瑞龍寺を出て北の丸跡へ向かう。石段を下りてまた上る。
お寺の下の石垣の脇の、細い道を通る。

北の丸。いきなり眺望が広がった。
「西の湖」を挟んだ向こうに、
安土山と、その背後の繖(きぬがさ)山。

琵琶湖も少し見えるが、そちらの方向に、
ハート型のモニュメントが建つ。
八幡山はなぜか「恋人の聖地サテライト」に
認定されているそうで、
それ関係のモニュメントが
いくつかあるらしい。

恋人の聖地
恋人の聖地サテライト・八幡山ロープウェー

西の丸跡へ移動。階段を上る。龍神堂という小さなほこらあり。

このあたりの石垣も見事。

階段を下りると西の丸。琵琶湖の眺望が素晴らしい。

対岸の山は比良山系。

で、ここにも恋人の聖地関係で、
でっかい「LOVE」の文字がある。
この景色を見たら、恋人の聖地になるのは
まあわからんでもないが、
ぼっちにはきつい。

形は違うけど、
東京の新宿のこれを思い出す。

あと「サテライト」という位置づけも、中途半端な感じを強めている。
恋人の聖地運営事務局も、「サテライト」という微妙な称号をやめて、
今サテライトになっている場所は全部、
正式に「恋人の聖地」に格上げしてもいいんじゃないだろうか?

さて、ここからは下り坂。コンクリートで整備された桟道。続いて階段。

二の丸跡に建つ「八幡山展望館」に入り、
2階へ上がってみた。

しかし、「展望館」なのに、ほとんど全ての窓が黒い幕で覆われて真っ暗。
何も見えない。

わずかに1ヶ所だけ、
申し訳程度に外が見える場所があるのみ。
しかもこの窓に近寄りづらい。

展望館の前庭にも、
「恋人の聖地」と書かれた
モニュメントがある。
近江八幡の町の眺めは、
この前庭から見える、と思ったが……。

……うーん、さっきのロープウェーからの
眺めに比べると、かなり劣る。
木に阻まれて、手前の城下町が見えない。

駅のあたりの大きな建物群は
何とか見えるけど。

こうなると、展望館の壁にある
モニュメントにも、いちゃもんつけたくなる。

造形は悪くないのだが、
滝の流れる部分が四角いアクリル板で覆われていて、なんか安っぽい。
アクリル板に水が当たって、ボコボコいうのも安っぽい。
もしかしたら、元々あった何かが破損して、応急処置でこうなっているのかもしれない。

「そもそも、
『恋人の聖地』なるもの自体が……」云々と
心の中でつぶやきながら、
ロープウェーの駅に戻ってきた。

午後1時ちょうどの便に乗る。
今度も空いていたので、
城下町の景色を撮影できた。

この写真の左上が駅前のビル密集地。
そこからまっすぐ手前にのびる道が新町通りで、町家の細い切妻屋根が連なる。
真ん中あたりの少し大きな家が旧伴家住宅。その手前に市立郷土資料館。
(隣の白い建物は銀行)
さらにその少し手前、緑地の中に、旧西川家住宅の3階建ての蔵が見える。
いちばん手前に八幡堀。

新町通りの右側、ひときわ広い道路は小幡町通り。
八幡小学校の白い建物が目立つ。

下から来た搬器とすれ違う。

八幡山ロープウェー


公園前

ロープウェーの公園前駅に戻ってきた。
さっきは気づかなかったが、
浮かれカップル向けベンチがあった。

モヤモヤした気持ちのまま、次の場所へ向かう。
さまぁ〜ずさんだったら、ああいう感じの物も面白くしちゃうんだろうか。

さて気を取り直して、
近江八幡の名前の由来となった
日牟禮(ひむれ)八幡宮へ。

本殿の手前に独立した拝殿がある。
確か、長浜八幡宮もそうだった。
あと、拝殿じゃなくて舞殿だが、
鎌倉の鶴岡八幡宮も似た配置だ。

右手には能舞台。
「日觸詣」(ひむれもうで)という
演目があるそうだ。

拝殿と能舞台の手前に、
菊が展示されている。

七五三で来るお子さんのために、
拝殿にアンパンマンとばいきんまん。

この神社には、大きなお祭りが2つある。
4月の八幡まつりでは、巨大な松明(たいまつ)が作られ、そこに火がつけられる。
応神天皇が当地に行幸した際、松明を使って道案内したのが始まりと伝わる。
それが西暦275年の出来事というから、驚くほど昔の話だが、
(応神天皇は当社の祭神・誉田別尊(ほむだわけのみこと)のこと)
とにかく八幡まつりは、古くから当地で行なわれてきた。

絵馬舎に、八幡まつりの松明が展示されている。

その隣に展示されているのが、
昨日、旧伴家住宅で見たのと同じ、
3月の左義長まつりのダシ。

近江八幡の城下町は、豊臣秀次が八幡山城を築く際、
安土から町ごと引っ越して形成された。
安土から来た人々は、元から当地で行なわれていた八幡まつりの荘厳さに驚き、
これに対抗すべく、安土のお祭りをこちらでも行ない、
やはり松明で作られた左義長を奉納するようになったそうだ。

絵馬舎に掲げられた絵馬の中に、
「西村太郎右衛門安南渡海之図」
と書かれたものがある。

これも昨日、市立資料館で解説文を見たが、西村太郎右衛門は江戸時代初期の近江商人。
安南(ベトナム)に渡って財を成したが、
日本がいわゆる鎖国状態になり、帰国できなくなった。
太郎右衛門は絵師・菱川孫兵衛に依頼して、日牟禮八幡宮に絵馬を奉納した。

その絵馬は現存し、重要文化財となっている。
これがその絵馬かと一瞬思ったが、
よく見ると、「紀元二千六百二年明治節」という文字がある。
1942年(昭和17年)に、太郎右衛門をたたえて描かれたもののようだ。

本殿に参拝。
日牟禮八幡宮は991年(正暦2年)に、
宇佐八幡神を勧請して八幡宮となった。
神社自体の歴史はもっと古く、
西暦131年、成務天皇が武内宿禰に命じて、
地主神の大嶋大神をまつったのが始まりだという。

天満宮、秋葉神社、八坂神社、恵比須神社など、摂末社に参拝。

八幡宮を後にする。

日牟禮八幡宮

午後2時少し前。月曜だけど観光客が増えてきた。少し暑くなってきた。

八幡宮の外に、稲荷神社と琴平神社あり。

八幡まつりに奉納される
太鼓を模したモニュメントあり。

稲荷神社の境内に、実物の太鼓が保管されているのが見えた。

昨日来た、かわらミュージアムの中を通って、
八幡堀を渡る。

広い通りを東へ進むと、
まるでリゾートホテルのような外観の
ヴォーリズ学園。

引き返して、鍛治屋町バス停の角を南へ。

メンソレータム創業者の名を冠した、
ハイド記念館・教育会館。
ヴォーリズが設計し、
1931年(昭和6年)に建てられた。
ハイド記念館は幼稚園舎として長年使われた。

そして、ヴォーリズが後半生を過ごした家。
現在はヴォーリズ記念館となっている。
予約すれば見学できるが、
いつ来られるかわからなかったので、
予約していない。(しかも月曜定休)
外観だけ見る。

木の質感が生かされた下見板張りの外観。落ち着きがある。
夫人のために和室も造られたらしい。
昭和6年の建物が、よくこうして残っているもんだ。
残している方々の活動が素晴らしい。

ヴォーリズ学園

西へ。永原町の旧扇吉もろみ蔵にも、
ビエンナーレの作品あり。

この永原町通りにも、
古い商家が建ち並んでいて、いい雰囲気。
昨日訪れた
ボーダレス・アートミュージアムNO-MAは
この先。

さらに西へ。
アンドリュース記念館。
1907年(明治40年)に竣工した、
ヴォーリズ建築第一号。

ヴォーリズの大学時代の親友だったが、若くして死去した、
ハーバート・アンドリュースの遺族の資金をもとに建てられ、
YMCA会館として使われた。

2階にナッツとドライフルーツの店があるらしいけど、入らなかった。
今日まだ昼ごはんを食べてないので、喫茶店だったら入ろうと思ってたけど。
中から体操の掛け声がする。介護予防支援センターがあるらしい。

瓦屋根や窓の意匠など、他のヴォーリズ建築より和風なところがある。

アンドリュース記念館の向かいに、
社員宿舎として1940年に建てられた旧地塩寮。

地塩寮という名前は、新約聖書の「地の塩・世の光」
(人々にとって欠かせないもの、役に立つものの意)に基づく。
この言葉はヴォーリズ学園の学園訓にもなっている。

アンドリュース記念館の隣に、
近江八幡教会。
アンドリュース記念館と同じ年に設立されたが、
火事で全焼し、1983年に再建された。

午後3時9分、小幡上筋に戻ってきた。これで近江八幡駅に戻るのだが、
ここと駅との中間くらいにゲーセンがあるようなので、
徒歩で向かってみようと思う。

ちょうど近くの小学校の下校時間だった様子。
近頃なかなか見ないくらい大勢の小学生が歩いている。
少子化の中、この人数は頼もしい。

3時26分、アルプラザ近江八幡に到着。

とにかく疲れたお腹が空いた。
入ってすぐフードコートがあったので、ここでお昼。ヒレカツ定食。

体力回復したところで、
3階の「室内ゆうえんちユーイング」に
行ってみた。
かなり大きなゲームコーナー。

プライズとメダル中心。メダルゲームには小型の懐かしい筐体もある。
ほかにのりもの、NEWプロボウル、ばいきんまんのもぐらたたき。
あとはアイカツフレンズ、スーパードラゴンボールヒーローズ、
ディズニー・マジックキャッスル・キラキラシャイニースターなどのキッズ向けゲームも。

太鼓の達人があった。1台は新しく、もう1台は「太鼓の達人13」。
13の方が4曲¥100だったのでやってみる。
ふつうモードで適当に、キセキ、夏祭り、ポリリズム、メルトをプレイしてクリア。
しかしポリリズムで途中危うくなって、
立て直す際に右手だけで叩いてたので、右手が疲れた。

4曲で¥100というのは珍しいので、せっかくだからもう1回やってみた。
バロックホーダウン(エレクトリカルパレード)、ナイトオブファイアー、
ウーッウーッウマウマ、キラメキラリの4曲クリア。
ゲーム路銀 ¥1,450-¥200+¥800=¥2,050
デカビタCを買って飲みながらひと休み。

アルプラザを出たら午後4時51分。薄暗くなってきた。ちょっと涼しい。

次のゲーセンへ移動。大きな看板が見えたので、道を間違えなくて良かった。
違う方向に行きかけてた。

公園があり、その前に
「協和」と刻まれた大きな石碑が建つ。
揮毫した人の名前を見ると、
「滋賀県知事 武村正義」とある。
後の新党さきがけ代表で、
官房長官・大蔵大臣を務めたあの武村さんだ。

石碑の裏には、「近江八幡東部土地区画整理組合」のメンバーの名前が並んでいた。

アクト・エースレーン近江八幡に到着。

看板も大きいが、建物も大きい。
見るからにパチンコ屋さんで、
ゲーセンがあるのかどうか不安になったけど、
外からゲーム機が見えて安心した。

とにかく広い。プライズ機が多い。ほかに音ゲー、パチンコ・スロット、ダーツ。
バスケット、エアホッケー、プリクラ、ビリヤード。
レース、ラブライブ、麻雀格闘倶楽部、戦場の絆。
ドラゴンボール・ゼンカイバトル、メルティブラッド、NESiCA×Live、NESiCA×Live2、
ディシディア・ファイナルファンタジー、マジシャンズデッドNEXTブレイジング、
機動戦士ガンダムエクストリームバーサスマキシブーストON。

BOSS THE CAN COFFEEを買って飲んでひと休み。
すぐ隣にカフェがあるから、そっちに行けばいいんだけど。
ほかに、パチンコ、カラオケ、ボウリングあり。

久しぶりにビシバシチャンプシリーズを見た。
「ビシバシCHANNEL」。見たことないけど新作か?
(※後で調べたら、「ザ・ビシバシ」以来9年ぶりの新作)
主人公は動画配信者で、ゲームをクリアすることでファンを増やすという設定らしい。
真ん中のボタンを回すという操作が加わった。

稲穂ステージ、サイコロステージはクリアしたが、
3面目からクリア条件が厳しくなって、牛とフンコロガシはクリアならず。

「太鼓の達人」もプレイ。3曲¥100だった。
USA、Hero、ダンシングヒーローという旬な曲をプレイ。
ふつうモードだったこともあって、あっさりクリア。
もしかして、ふつうモードの難易度が下がってるのか?
ゲーム路銀 ¥2,050-¥200+¥500=¥2,350

あらためて隣の「カフェクク」に入り、アイスカフェラテを飲んでくつろぐ。
カフェといっても飲み物や軽食だけじゃなくて、
カレーやカツ丼やうどんなどが食べられるらしい。
内装は、スタバを大きくしたような、洒落た感じ。

アクト・エースレーンから外に出た。午後6時3分。暗くなった。
体力は回復したと思うので、駅前まで歩いてみる。
途中で道を間違えて、街灯が全然ない通りを歩くはめになったり、
迷ってなかったらどんな道を通っていたのか確かめにいったん戻ったり。

今朝のホテルに戻ってきたのは6時34分。
荷物を受け取り、昨日泊まってたホテルにまたチェックイン。
金曜日に新幹線が止まって、日程が1日ずれたせいでこんなことに。

8時頃、晩ごはんを食べに、
イオン近江八幡ショッピングセンターへ。

昼ごはんが遅めで、しかもトンカツ、そして晩ごはんがやや早めなので、
少し軽めにしよう。スガキヤ。ただし特製ラーメン。

8時30分。もう閉館まで30分しかないけど2番街へ。
5月にゲームセンターアクア店があった場所は、トレーニングジムになっていた。
ゲーセンではなくなったが、新しいテナントが入って良かった。

タイトーFステーションで、
「リズム天国」を1回だけプレイしよう。
2プレイ¥100。

マーチャが「平凡」判定だったが、とりあえず全6ステージクリア。
ただ、最後のリミックスをプレイ中に、店内の照明が落ちる。
8時45分になってた。1プレイにけっこう時間がかかってた。
もう1プレイしたら確実に閉店時刻を過ぎるので、1プレイだけで終了。
ゲーム路銀 ¥2,350-¥100+¥300=¥2,550

現在のゲーム路銀
¥2,550

今回のルート



近江八幡観光物産協会  びわこビジターズビューロー(滋賀県)
JRおでかけネット(JR西日本)  近江鉄道

次回、「日本縦断ゲーセン紀行 222.滋賀編(13)」では、
八日市と野洲と守山で太鼓三昧。
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