ゲイムマンのダイスステーション

日本縦断ゲーセン紀行

230.時計とカルタの聖地
〜滋賀編(21)〜


スタート時点での「ゲーム路銀」は、「ゲーセン」にちなんで¥5,000(G千)。
ゲーセンでゲームをプレイして、1面クリアーするごとに、
「ゲーム路銀」は¥100ずつ増える。
(ただし、1プレイ¥50円のゲームなら¥50ずつ、1プレイ¥200なら¥200ずつ。
 ゲームをプレイするためのお金も、「ゲーム路銀」からねん出する)
この「ゲーム路銀」だけを交通費にして、日本縦断を目指すのだ!
(前回までのゲーム路銀 ¥2,390


京都('19.4.11)

2019年4月11日。8時半起床。5時間半寝られたけど眠い。
10時ホテル出発。昨日ほどではないけど寒く、しかも天気雨が降っている。

10時11分発の湖西線近江今津行きに乗る。
221系4両編成クロスシート。

今日も琵琶湖線が遅れているので、その影響で出発が10時18分になった。
朝ごはんを食べてないので、お腹すいた。
赤穂線の信号トラブルが、ここにまで響いているらしい。

10時29分、大津京駅着。
4両だし遅れたしで、さすがに満員だった。

今日は大津京からスタートだが、
すぐに京阪大津京駅へ歩き、
10時41分発の坂本比叡山口行きに乗る。
駅に着いたら、
ちょうど電車が来るところだった。

住宅地の中を走り、1分後の10時42分、
近江神宮前駅で降りた。
ゲーム路銀 ¥2,390-¥170=¥2,220

京阪大津京〜
近江神宮前

近江神宮前という駅名だが、
近江神宮にはあまり近くない。
この駅は近江神宮が建つより
前からあったらしい。
(最初は錦織という駅名だった)

10時50分、近江神宮を目指して歩き始める。雨はやんでいた。

近江神宮は1940年(昭和15年)、皇紀2600年を記念して創建された。
神社としては新しいが、この土地の歴史は古い。かつての天智天皇の都、大津宮の跡地だ。
667年、中大兄皇子は都を飛鳥からここに移し、翌年即位した(天智天皇)。
しかし天智天皇崩御後、壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)が敗れたため、
わずか5年半で都はまた飛鳥へと戻された。

駅のすぐそばにある
錦織(にしこおり)遺跡が、
かつての大津宮の中心地だったらしい。
今は閑静な住宅地。

大津宮跡地の寂れた様子を嘆いた
柿本人麻呂の歌碑と、
明治時代に建てられた志賀宮址碑がある。

人麻呂は、大津宮があった頃には既に生まれていた世代の人物。
飛鳥への遷都後わずかの期間で、この都の跡地は寂れていたということになる。

スイセンが1株ぽつんと咲いていた。

近年まで、大津宮が具体的にどこにあったかは、はっきりしなかった。
諸説ある中、この錦織が有力な場所とされ、近江神宮が建立された。
大津宮跡地が確定したのは昭和の後期で、
1974年(昭和49年)の発掘調査で、ここに内裏南門跡とみられる柱穴が発見された。

少し北へ歩いた所に、
もう1ヶ所遺跡の区画があった。
この地点こそまさに、大津宮の中心、
内裏正殿の跡地である。

近江神宮前駅が近江神宮から離れた場所にあったおかげで、
駅から向かう参拝客は、偶然に近い形で、
天智天皇が政務を執った大津宮の、中心地を通ることになったのだ。

さらに北へ歩く。大津京シンボル緑地と名づけられた駐車場に、
天智天皇、額田王、柿本人麻呂などの歌碑が並ぶ。

小さな川を渡ると、そこから突然森の中。
参道の途中に入る形になったようだ。

このまま近江神宮へ向かっても良かったが、いったん逆方向へ歩き、

一の鳥居を仰ぎ見る。

この鳥居の前を、広めの道路(県道)と、石山坂本線の線路(踏切)が横切っている。

県道と踏切の間に建つオブジェ。

鳥居の脇に、
「ようこそかるたの聖地『大津』へ」
と書かれた看板が立つ。
確かJR大津京駅にもあったはず。

再び参道へ。
色の濃い桜と、白い桜が並ぶ。

濃い桜は、昨日の雨で
かなり散ったのかもしれない。

石段を上がって二の鳥居へ。

その先の桜が華やかだった。
桜の下に歌碑が並ぶ。
膳所の義仲寺を再興した、
保田與重郎の歌碑もある。

さらに先の駐車場の桜がもっときれい。
空も明るくなってきた。

11時30分。ここにあるはずのそば屋さんで、朝ごはんにしようと思っていたのだが……。

お店の入口に、
「本日は休業とさせていただきます」
という文字が。
さあどうしよう。

どうしようも何もまずは参拝である。
石段の上にそびえ立つ楼門が立派。
威厳がある。

この石段を上るのはつらそうだと思ったが、上ってみたら意外と行けた。

拝殿と唐門と回廊が一緒になったような、
外拝殿に入って参拝。

近江神宮は1940年(昭和15年)創建。天智天皇をまつる。
神社としては歴史が浅いが、前述のとおり、
天智天皇の近江大津宮の跡地に鎮座しており、土地としての歴史は非常に古い。

大化の改新を行なったことで有名な天智天皇だが、
日本で初めて時計(漏刻)を使い、時刻制度を始めた天皇でもある。
そのため当社では、時の神、時計の神としてまつられている。

さらに、天智天皇御製の短歌
「秋の田のかりほの庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ」
が、小倉百人一首の第1番の歌であることから、
カルタの神としてもまつられている。
(そのためここ近江神宮は、漫画「ちはやふる」に登場している)

近江神宮

境内にさまざまな時計が並んでいる。
天文学者の矢橋徳太郎氏が考案した、
誤差の極めて小さい「矢橋式日時計」。

どの時計も、オブジェとして見ても
目を引くような、面白い姿。

そして、庭園の一部として設えられた漏刻。
今正午なのだが、ちょっと見方がわからない。
時刻によって矢の長さが変わるらしいが。

銘板に、オメガのマークがついている。
1964年(昭和39年)、
オメガ社の総代理店から寄贈された。

中国の昔の火時計を復元したもの。
こちらはロレックスからの寄贈。

自動車清祓所には、
1890年(明治23年)に建てられた
大津地方裁判所の、車寄せが移設されている。
近江神宮の中で最も古い建物だ。

時計館・宝物館へ。(入館料¥300)

1階が時計館。
日本の古い香時計(香が燃えた長さで時間を計る)。櫓(やぐら)時計。
掛時計(戦艦鎮遠の艦長室にあったものも)。ユニークな形の置時計。

高松宮家から下賜された懐中時計の数々。
その中には有栖川宮家伝来の、日本に現存する最古の懐中時計とみられるものも。
そのほかにも、明治時代の懐中時計が展示されている。

背景に時計が描かれた、伊東深水の美人画。
描かれている女性は、若き日の朝丘雪路さん(深水の娘)。

毎年6月10日、時の記念日に行なわれる「漏刻祭」のとき、
各時計メーカーから献納された時計。
「ちはやふる」の時計も展示されていた。

時の記念日は、大津宮で時報が開始された日を記念して制定された。
日本書紀によると、時報開始の日は天智天皇10年の4月25日。
この日がグレゴリオ暦の671年6月10日にあたることから、6月10日が時の記念日となった。

漏刻の仕組みも解説されていた。サイフォンの原理で一定量の水を流し続け、
一番下の水槽に矢を浮かべて、その高さで時間を計るらしい。

そのほか、古い仕組みの機械式時計もあった。

2階は宝物館。さまざまな日本画(海北友松の作品と伝わるものも)。
曾我蕭白の屏風の複製(実物は琵琶湖文化館に寄託)。
河井寛次郎の茶碗と壺。舞楽面。神宮鎮座を記念した皇族御詠歌など。

年間行事の写真。カルタの名人戦・クイーン戦に始まり、
流鏑馬(やぶさめ)、お茶、時の記念日の漏刻祭、燃水(石油)、書道など、
いろいろな行事が行なわれていることがわかる。

近江神宮

時計館・宝物館を後にする。
今度はカルタの聖地に向かう。

ベンチに時計とカルタが並ぶ。

北海道に伝わる、
下の句カルタの取り札が奉納されていた。
読み人が下の句だけを読むことと、
取り札が木札なのが大きな特徴。
私は北海道出身なので、
子供の頃の百人一首はこれだった。

近江勧学館。研修・宿泊のできる施設だが、
何といっても、
競技かるたの名人位戦・クイーン位戦、
そして全国高等学校かるた選手権の
会場として知られる。

「ちはやふる」関連の展示がいっぱいあった。
末次由紀先生のサインや絵馬。
実写映画の俳優さんのサイン(広瀬すずさんや野村周平さんなど豪華なメンバー)。

アニメ版の登場人物のポップもある。
衣装を着たファンの女の子たちが、
記念写真を撮っていた。

2階に、競技会場となる
「浦安・豊栄の間」があった。
80畳の大広間だった。
誰もいないと、ほんとに静かな畳の大広間。

近江勧学館

楼門に戻り、「ときしめす守」をお受けして、近江神宮を後にした。

近江神宮

来たときと違うルートで駅に向かうと、
途中に京阪の車庫(大津列車区)があった。

午後1時38分、近江神宮前駅着。
1時43分発の電車に乗って、終点の坂本比叡山口へ向かおう。

駅を出てすぐ右にさっきの車庫。続いて左に近江神宮の一の鳥居。
あとはひたすら住宅地。南滋賀。滋賀里。
左は家々の奥に山がそびえ、右はときどき琵琶湖が見える。
三上山も顔を出す。その右に大きな山脈も。

穴太(あのお)駅前の花壇がきれい。
松ノ馬場(まつのばんば)駅のホームに桜が咲いていた。

午後1時52分、坂本比叡山口駅に到着した。
ゲーム路銀 ¥2,220-¥170=¥2,050

〜南滋賀〜滋賀里(しがさと)〜穴太(あのお)〜松ノ馬場(まつのばんば)〜
坂本比叡山口

ホームの端にあるモニュメント。
1910年(明治43年)京阪創業当時の、
京阪本線のレールが使われているらしい。

この駅には昔1回来たことがある。
売店か喫茶店があった気がしたが、
記憶違いだった。
多分、京福の嵐山駅と間違えてる。

近くにあった本家鶴喜そばで、
ようやく朝ごはん。
月見そば。生き返る。

食べ終わって、坂本の町へ。
日吉大社の鳥居の前の桜が見事。

桜の色にも濃い薄いあり、
景色にリズム感がある。

石垣と桜の組み合わせが美しい。

坂本の町並みで特徴的なのがこの石垣。
さっき石山坂本線に「穴太」(あのお)駅があったが、
石垣を積む職人集団として知られる「穴太衆」の拠点は、この近くにあったらしい。

日吉大社の参道から少し左にそれて、
滋賀院門跡に行ってみた。

徳川家康・秀忠・家光の
ブレーンとして有名な天海が、
京都にあった法勝寺の建物を
後陽成上皇から下賜され、
1615年(元和元年)に創建した。
滋賀院という号は、
後に後水尾上皇から賜っている。
江戸時代末期まで、
天台座主(ざす)の御座所となっていた。

しかしその建物は
1878年(明治11年)に火事で焼失。
延暦寺山上から建物3塔が移築され、
2年後に再建された。

中に入る(拝観料¥450)。
明治に移築された建物ではあるが、見事な造り。
特にふすま絵がそれぞれ素晴らしい。
不滅の法灯、天台座主のかご、天海のよろいなど、貴重な品々も。

内仏殿で薬師如来様にお参り。

庭園は小堀遠州作と伝わる。
池の周りに角ばった岩々を配する。木々や苔の緑。さらに滝。
ゆうゆうと池を泳ぐ鯉。

座主接見の間。
後ろに麒麟の絵が掛かっている。
清国皇太后に贈る予定だったが、日清戦争で取りやめになったそうだ。

里坊(さとぼう)・老僧の住まいを再現した部屋。
かつて延暦寺の僧は一生を比叡山で過ごしていた。しかし山での生活は厳しいので、
江戸時代初期から、高齢になった僧侶が山を下りて里に住むようになった。
この里の住居を里坊と呼ぶ。坂本には54ヶ寺の里坊が現存する。
特に先ほどの日吉参道の、両側に並んでいた寺のほとんどが里坊だそうだ。

滋賀院は、中身の濃い美術館・博物館という感じだった。
渡辺了慶、鈴木松年などのふすま絵、両界曼荼羅など。
短い時間だったが大いに堪能した。

天台宗務庁の前を通って、
石段を上ると慈眼堂。天海をまつる廟所だ。
(墓所は日光にあるらしい)
天海は、信長の焼き討ちで荒れた
比叡山の再興に尽力している。

慈眼堂の隣に、たくさんの石塔、仏像、石灯篭などが見える。
ひときわ大きなのは、桓武天皇供養塔だとか。
ほかに、江戸時代以降の歴代天台座主の墓や、
後陽成天皇、後水尾天皇、徳川家康、紫式部、和泉式部、新田義貞の供養塔もあるそうだ。

来た道を戻り、また日吉参道へ向かう。
近くに高校があり、下校時間のようで、学生さんとよくすれ違う。

滋賀院門跡の御成門が立派。

参道でも大勢の学生さんが、
坂を下って駅へと歩いている。
私はもう少し坂の上へ向かう。

旧竹林院。
かつて里坊(延暦寺の僧侶の隠居所)だった
所で、広い庭園が一般公開されている。
(入園料¥320)

まず、建物の1階から庭を眺める。
見渡す限り広がる庭園は、きれいでもあるが、
松の枝ぶりのせいか、
少し不思議な雰囲気もある。

右端のしだれ桜が、
ちょっと異質な感じでまた良い。

よく観光情報サイト等に載ってる
アングルの写真。

まさか、木の座卓に景色を反射させて
撮っていた
とは思わなかった。

座卓の上に説明書きが置かれていた。
「座卓に景色を反射(リフレクション)させ、
撮影しています」
「撮影した写真は、ハッシュタグ
『#hellootsu』『#旧竹リフレ』を付けて
ぜひ投稿してください」

2階へ。上から庭を見下ろすと、
川の形が目立ち、また違った雰囲気。

遠くに茶室の屋根が見える。
庭園が広いのもよくわかる。

桜はやっぱり華やか。

2階にも座卓があったので、
桜を絡めて、いい感じの
リフレクション写真が撮れた。

最後に庭園を散策。

さまざまな角度からこの庭を眺め、
木々や苔や岩肌や、水の流れを間近で見つめたり、
清らかな空気に触れたり、
道の土や石や木の根の硬さを、足で感じたりする。

庭の方から建物を見る。
木の種類が多いことにも驚く。

ここにはまた何度か来たいと思った。
訪れるたびに、何か発見があるかもしれない。

旧竹林院

日吉参道のしだれ桜の下で、和装の結婚写真の撮影が行なわれていた。

日吉大社の鳥居が見えた。
今度は朱塗りの鳥居。

もう時間も遅いので、今日はここまで。
明日ここから再スタートしたいが、明日から日吉大社の例大祭らしい。
混むかなあ?

鳥居から見える山の上に、
奥宮らしき建物が見えた。
三宮と牛尾宮というらしい。

あんな高い所に建ってる。

駅へ戻ろう。
参道で女子高生が、
三脚立てて写真を撮っている。
本当に華やかな景色。

坂本比叡山口駅から、
午後5時6分発の石山寺行きに乗る。

5時16分、京阪大津京駅で降りて乗り換え。
JR大津京駅に着いたのが5時22分。宿泊地の京都に向かう、次の電車は……5時39分。
今日はここで17分待ち。

今日も大阪環状線の試運転列車がホームに止まっていた。
今日も特急が1本通過した。

今気づいたけど、なぜかここに、
モン・サン・ミッシェルの写真がある。
広告ではない。

(さらに、この文章を書く段になって気づいたけど、
もしかしたらこの写真、裏焼きで左右が反転してないだろうか……)

5時39分の電車は、117系だった。
6両編成セミクロスシート。
5時49分、京都駅着。

コンビニでドーナツとカフェオレを買って、ホテルに戻る。
ドーナツを1個食べて、6時半頃から野球中継を見ながら寝たら、
9時近くまで寝てしまう。そんなに眠かったか。

さすがは京都、この時間まで開いてるお店が多くて嬉しい。
駅の中のレストランで、牛カツカレーを食べた。良かった。


現在のゲーム路銀
¥2,050

今回のルート

びわ湖大津観光協会  びわこビジターズビューロー(滋賀県)
JRおでかけネット(JR西日本)  京阪電気鉄道


次回、「日本縦断ゲーセン紀行 231.滋賀編(22)」では、
いよいよ比叡山へ。
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