ゲイムマンのダイスステーション

日本縦断ゲーセン紀行

231.比叡山延暦寺ひと巡り
〜滋賀編(22)〜


スタート時点での「ゲーム路銀」は、「ゲーセン」にちなんで¥5,000(G千)。
ゲーセンでゲームをプレイして、1面クリアーするごとに、
「ゲーム路銀」は¥100ずつ増える。
(ただし、1プレイ¥50円のゲームなら¥50ずつ、1プレイ¥200なら¥200ずつ。
 ゲームをプレイするためのお金も、「ゲーム路銀」からねん出する)
この「ゲーム路銀」だけを交通費にして、日本縦断を目指すのだ!
(前回までのゲーム路銀 ¥2,050


京都('19.4.12)

2019年4月12日。8時起床。睡眠時間5時間。
昨日買ったドーナツを1個食べる。
ホテルをチェックアウト。
今夜は京都にもう1泊するので、今日泊まるホテルに荷物を持っていって預ける。

体調が不安で、何日間旅行できるかわからなかったので、
ずっと京都に泊まるつもりだったにもかかわらず、
2泊だけ予約→大丈夫そうなので、そのホテルから別のホテルを2泊予約
→さらに別のホテルを1泊予約、と京都駅前で少しずつ拠点を移動する形になった。

湖西線、京都駅9時48分発の新快速・近江今津行きに無事乗れた。
山科駅で非常停止ボタンが押されて止まったものの、
そんなに大きなアクシデントではなかったようで、3分遅れで済んだ。
ここ3日間の十数分待ちに比べれば、はるかにまし。

10時1分、大津京駅着。京阪大津京駅へ行き、
石山坂本線、10時12分発の坂本比叡山口行きに乗り換える。
1961年から1997年まで走っていた、80型のカラーリングを再現した車両。

滋賀里から穴太までの間、琵琶湖が比較的よく見える。

10時24分、終点の坂本比叡山口駅着。

坂本比叡山口

まずは、昨日行った日吉大社の
赤い鳥居まで歩く。

今日も参道の桜がきれい。

夕方から日吉大社の山王祭が始まる。
それに向けて屋台の準備が進められている。

赤い鳥居の前まで来た。昨日はあまり意識してなかったけど、
駅から一気にここまで来たら、けっこうな上り坂だった。

今日はいよいよ比叡山延暦寺へ向かう。
この先はケーブルカーやバスで、交通費がそれなりにかかりそうだし、
ゲーセンやゲームコーナーはないと思うので、
ここに戻ってくるまで、ゲーム路銀の増減がない番外編にする。

ケーブル坂本

鳥居の前で左に折れてさらに進む。
比叡山行きケーブルカーが出る、
ケーブル坂本駅に着いた。
駅舎は1925年(大正14年)に建築された、
国の登録有形文化財。

駅に着いたのは10時57分。
11時ちょうど発の便があるので、急いで往復切符を買って乗る。(¥1,620)

ケーブルカー「縁」号。
お客さんはちょうど
全員座れるくらいの人数だった。
座席は下向きについていて、
後ろ向きに上っていく。

木々の中を走る。

途中駅が2つある。まず、ほうらい丘駅を通過。小さな地蔵窟が見える。
ケーブルカー建設の際に、小さなお地蔵さんが多数出土したので、
ここに集めてまつっているそうだ。
織田信長の比叡山焼き討ちで犠牲になった人々を、弔うための地蔵だと伝えられている。

短いトンネルを抜ける。(下向きの状態で)右側に琵琶湖が少しだけ見えた。
左側を、もう1台のケーブルカー「福」号が通過。
トンネルへ。今度はさっきより長い。トンネルを抜けると引き続き森の中。
車の下からガタンガタンと小さな衝撃。左右に小さな木彫りの犬や猿。
左に少し琵琶湖が見える区間。

もたて山駅を通過し、ケーブル延暦寺駅に到着。
所要時間11分。よく、この長い区間にケーブルカーを通したなあ。
しかも大正から昭和初期に。
全長2,025メートル。現存する日本一長いケーブルカー路線だ。

〜ほうらい丘〜もたて山(もたてやま)〜
ケーブル延暦寺

駅を出たら、目の前の景色が素晴らしい。
琵琶湖が眼下に広がる。

琵琶湖大橋がよく見える。

そしてこの駅舎もいい。
観光地らしい明るさがあり、
かつ格式も感じられる。
こちらも1925年建築の登録有形文化財。

駅の裏からも琵琶湖が望めた。
こちらは大津京から、
におの浜にかけての市街地側。

坂本ケーブル(比叡山鉄道)

延暦寺は、東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)の
3つの地域に大きく分けられる。
まず東塔の根本中堂へ向かおう。

崖の上だけど舗装されてて歩きやすい道を7、8分。
途中で、両手に袋を提げた郵便屋さんとすれ違った。
空(から)のしょいこを背負っている。

駐車場の上に、塔が見えてきた。

いよいよ延暦寺に入る。拝観料は¥700だが、
国宝殿とのセット券(¥1,200)を購入。

根本中堂(こんぽんちゅうどう)は788年(延暦7年)、
最澄(伝教大師)が建てた一乗止観院という寺を原点とする、延暦寺の総本堂。
御本尊の薬師如来像は、最澄自らが刻んだと伝わる。

最澄はその後、唐に留学し、天台山で天台教学を学ぶとともに、
禅や密教の教えも受け、日本の天台宗の基礎を築いた。
最澄入滅後も延暦寺は、後の日本の仏教に、大きな影響を与えている。

根本中堂は現在修復工事中だが、拝観は可能。

2010年に私が訪れたときの根本中堂。
現在の建物は1642年(寛永19年)、
徳川家光によって建てられた。

現時点で工事が行なわれているのは主に廻廊や外壁、屋根の部分で、
内陣の主だった所は厳かな雰囲気。
天井画や透かし彫りが、煙で霞んだ明かりに照らされて幻想的。
御本尊の薬師如来様(秘仏)に参拝。

御本尊の前に、不滅の法灯の灯籠が3基並ぶ。
最澄の時代から千二百年絶やさず燃え続けている。

お守りをお受けする。

階段が設けられ、工事の様子を
上から見られるようになっていた。
ここが中庭の位置で、
本堂と回廊の屋根を見ることができる。

屋根の表面をはがした状態を見ることも、そもそもこの位置から屋根を見ることも、
この改修中にしかできない。

比叡山延暦寺

根本中堂の前から、長い石段を上って、
文珠楼へ行ってみる。
こちらが本来の山門らしい。
石段は、昔ながらの、蹴上が高いもの。

上り切って、ベンチで息を整える。
文珠楼は1668年(寛文8年)に火事に遭い、
その後再建された。

上の階に文殊菩薩像がまつられているのだが、
まさか、中に入って上がってお参りできるとは思わなかった。
階段は、階段というよりほぼはしごで、上るのに勇気が要ったが、
意を決して上ってお参りした。

根本中堂とは逆側の石段を下りる。
この近くの延暦寺会館に、食堂があるらしいけど、
団体さんが2組くらい入っていったし、既に12時半なので、
先にほかの諸堂を回って、もし時間があったら食事することにする。

大黒堂。御本尊は「三面出世大黒天」。
大黒様と弁天様と毘沙門様が
一体になった姿をしているらしい。
そのお姿はよく見えなかった。

その向かいに建つ萬拝堂では、日本全国の神仏を勧請し、
さらに世界の神々も奉安して、世界平和と人類の平安を祈願しているそうだ。
真新しい、きらびやかな仏様が鎮座されている。

緩やかな坂を上がると鐘楼に出た。

その隣に大講堂が建つ。
もとの大講堂が
1956年(昭和31年)に焼失した後、
1964年に坂本の讃仏堂を移築した。
重要文化財。

中に入ると、ちょうど僧侶の方がお勤めの最中だった。
御本尊は大日如来様。参拝。

大講堂内には、比叡山で修行された、各宗派の開祖の木像がまつられている。
さらに、お釈迦様と十大弟子、そして中国や日本の高僧の、巨大な肖像画が、
外陣の壁の全ての面に掲げられている。迫力がある。

比叡山延暦寺

伝教大師最澄の業績や、各宗派の開祖を紹介する絵看板が並ぶ道を歩く。

延暦寺に伝わる宝物を収蔵する、
比叡山国宝殿へ。

「国宝殿」という名前は、
「一隅を照らす、これ則ち国宝なり」という最澄の言葉から来ている。
でももちろんさすがに延暦寺、文化財保護法に基づく国宝や、重要文化財も数多い。
(根本中堂(国宝)をはじめ、建物にも国宝・重文が多い)

国宝殿に入ると、いきなり平安時代のお釈迦様が出迎える。
織田信長の比叡山焼き討ちの際に助け出され、難を逃れたという。

先代の鐘楼にあった鐘。
鐘楼は大講堂と同じ1956年の火事で焼失したが、鐘だけ残ったらしい。

国宝殿は1階から3階まである。
1階には、平安時代や鎌倉時代から伝わる諸仏像。
阿弥陀如来。薬師如来。四天王。異形の五大明王。千手観音。
重要文化財ばかり。
信仰の対象であり、また美術品としても凄い。

2階にもさまざまな仏像がある。さまざまな不動明王や大黒天。
ふくよかで、えらく人間臭い大黒さんも。

高僧の像。
徳川家康からの書状(比叡山焼き討ちからの再興に関して)。

掛け軸や屏風。
伝教大師絵伝は、下村観山、松岡映丘筆。
屏風は山王祭礼図(江戸時代)。
木製の活字もあった。

3階は新しい美術品が多い。
仏教が日本に伝わる様子を描いた巨大壁画「仏教東漸」。
1987年に奉納された書や、現代の仏画、花鳥画。
鬼追式で用いられる鬼面。大正時代の伝教大師絵伝。明治時代の延暦寺絵図など。

国宝殿から引き返し、先へ進む。
戒壇院(重要文化財)。
天台宗の僧侶が、戒律を授かる所。
あまり目立たないけど、比叡山において
たいへん重要な建物の一つである。

かつては戒壇で受戒しなければ、僧侶になることはできなかった。
最澄の時代、戒壇は東大寺など国の建てた寺にしかなく、
最澄は比叡山への戒壇設立を望んでいたが、生前は実現しなかった。
822年(弘仁13年)、最澄入寂の直後に許可が下り、戒壇院が建立された。
現在の建物は江戸時代初期に再建されたもの。

三井寺の鉄鼠伝説を思い出した。
三井寺(園城寺)の頼豪は、白河天皇から戒壇の建立を認められたが、
延暦寺の反対に遭って取り消されてしまう。
頼豪の没後、その怨念が8万4千匹のネズミと化して、
延暦寺の経典や仏像、堂塔を食い荒らしたという話。
こういう伝説があるということ自体、戒壇の存在がいかに重要かを物語っている。

広い坂と石段を上り、阿弥陀堂へ。
堂内で阿弥陀様にお参り。

そしてその隣に、昭和末期再建の
法華総持院・東塔。

午後2時を回った。
この後、西塔(さいとう)と横川(よかわ)にも行きたいが、横川までは無理かな?

比叡山延暦寺

阿弥陀堂と東塔の間の門をくぐり、
徒歩で西塔を目指す。

私は9年前、比叡山に来たことがあって、
そのとき東塔と西塔に行ってると思い込んでいたが、
東塔までしか来ていなかったことにここで気づいた。

車道に架かる橋を渡り、
森の中の階段をどんどん下る。

浄土院。伝教大師最澄の御廟所である。

侍真という役職の、
12年籠山行を行なっている僧が、
ここで大師に仕えているのだそうだ。

その先は石灯篭の並ぶ、緩やかな上り坂。
道を掃き清めるお坊さん。
参拝者がこの山道を通行できるのも、こういう方々のおかげです。

午後2時27分、西塔の「にない堂」到着。
親鸞聖人が修行されたのが、このあたりだそうだ。

同じ形の建物が、2棟並んでいる。
向かって左が常行堂。
90日間の常行三昧(阿弥陀如来の周りを
歩きながら念仏を唱え続ける)の修行が
行なわれる。

向かって右が法華堂。
法華三昧の修行が行なわれる。

※法華堂の修行については、資料によって書かれていることが微妙に違っていて、
よくわからなかった。
普賢菩薩の前で坐禅を組んで、法華経の読誦(どくじゅ)を行なう常坐三昧だという資料と、
半行半坐三昧だという資料があった。

この2棟は、渡り廊下でつながっている。
法華と念仏は一体であるという
教えを表しているそうだ。

「にない堂」という名前は、弁慶が渡り廊下をかついで(になって)、
天秤棒のようにこの2棟を持ち上げたという伝説から来ている。

その弁慶の天秤棒をくぐって、さらに先へ。
道の左手にある恵亮堂。

道の突き当たりに、
西塔の中心的建物の釈迦堂(転法輪堂)。
重要文化財。
釈迦堂の両側に、
お釈迦様と法然上人の生涯について解説する
絵看板が並ぶ。

釈迦堂の建物は、もともと三井寺(園城寺)の金堂だった。
三井寺に行ったときにも触れたが、1595年(文禄4年)、
豊臣秀吉は三井寺に闕所(けっしょ)を命じ、寺領を全て没収した(理由は不明)。
このとき三井寺の金堂が、織田信長による焼き討ち後の復興の一環として、
ここに移された。

建てられたのは1347年(貞和3年)頃で、現存する比叡山の建物で最も古い。
飾り気はないけれど、扉は大きく、柱は太い。

上にある鐘楼、下にある椿堂を遠くから眺める。
椿堂のあたりには昔、聖徳太子が訪れていたという伝承がある。
その際、杖にしていた椿の枝を刺したら、やがてそれがあたり一面に育ったという。

比叡山延暦寺

午後2時54分、西塔バスセンター着。
3時10分発の山頂行きに乗って東塔へ戻るか、
それとも3時9分発の横川(よかわ)行きに乗るか。迷う。

横川は午後4時で閉まるが、今からならぎりぎりまだ行けると判断。横川行きに乗る。
やってきたバスに乗っていたお客さんは全員この西塔で降り、
私ともう1人、吉田羊さんを若くした感じの女性がここから乗った。

車内アナウンスによると、この自動車専用道に沿って、
千日回峰行などの回峰行で使う道があるらしい。

琵琶湖の眺めがいい。

比叡山は、過酷な修行の場であるとともに、
景色の良い観光スポットでもあるという、なんか不思議な場所だ。
展望レストラン前のバス停に停車。乗降客はいなかった。
巨大な伝教大師像が建つ。

3時18分、横川に到着(¥580)。
今までも山奥だったけど、ここはまた一層、山奥然としている。
横川は848年(嘉祥元年)、第3世天台座主・慈覚大師円仁により開かれた。

道元、親鸞、日蓮の生涯を解説する
絵看板が並ぶ。

その先の龍ヶ池には、元三大師(がんざんだいし)と大蛇の伝説がある。
この池に棲みついて村人たちに害を与えていた大蛇を、
元三大師が小さくして弁天様に託し、
以後この大蛇は弁天様のもとで横川の守り神になったそうだ。

大蛇には自身の体を大きくしたり小さくしたりする能力があり、
それを元三大師に利用された。
似たような昔話がどこかにあったような気がするが、思い出せない。

池の隣に、横川の中心的建物である
横川中堂が建つ。
石垣の上に懸造(かけづくり)。

比叡山焼き討ちの後、豊臣秀頼と淀殿により再建されたが、
1942年(昭和17年)に火事で焼失。
現在の建物は、1971年(昭和46年)に再建された。

隣の山上に根本如法塔が見える。
当山で書き写された仏教の経典を
納めるために建てられた。
1925年(大正14年)の再建。

先ほどの東塔・西塔間の道もそうだったが、人が少なくて、鳥の声しか聞こえない。

横川中堂へ。御本尊は聖観音菩薩様。
戦火や火事を奇跡的にくぐり抜けた、平安時代の木像らしい。
参拝者が奉安した小さな観音像が、壁を埋め尽くすくらいびっしりと並んでいた。

横川中堂を出ると残り20分。焦って上り坂を上る。自律神経には多分良くない。

最後に、元三大師堂(四季講堂)に参拝。
元三大師(がんざんだいし)良源が
住んでいた場所。

隅の方に、雪がわずかに残っている。

良源のおくりなは慈恵大師(じえだいし)なのだが、
1月3日に亡くなったことから、元三大師と呼ばれるようになり、
今日ではこちらの名前の方がよく知られている。

良源は平安時代の天台座主で、火事で失われていた堂塔を再建した。
特に根本中堂を今日のような大きな建物にしたのは良源である。
また、おみくじの創始者とされており、元三大師堂には「おみくじ発祥之地」の碑が建つ。
(※「ブラタモリ」で林田アナウンサーがおみくじを体験した場所がここ)

今日では、魔除け、厄除けの大師様としても信仰されている。
栃木県佐野市の佐野厄除け大師(惣宗寺)も、元三大師をまつるお寺だ。

午後3時53分、横川の入口から出た。
この短時間でよく横川まで回れた。

日蓮が修行していた定光院や、
「往生要集」を著した源信(恵心僧都)ゆかりの恵心堂には行けなかったけど、
体調を崩すことなく、ここまで来られたことが嬉しい。
もう一生ここまで来ることはないかもしれない。

比叡山延暦寺

午後4時10分発のバスに乗る。
男性の一人客が私以外に3人。
うち1人はお坊さんのようだ。
ほかにロシア人のカップルと、
さっきここに来るバスに乗ってた女性が1人。

西塔のバス停と、延暦寺バスセンターで、それぞれ男性が1人ずつ乗るが、
思っていたほど混まずに済んだ。
4時25分、坂本ケーブル・延暦寺駅近くの、東塔バス停で下車(¥670)。
ここで降りないお客さんも多かった。
このバスは比叡山頂行きなので、山頂からロープウェイとケーブルカーを乗り継いで、
八瀬(やせ)比叡山口駅から京都方面に向かうのだろう。
山頂にはガーデンミュージアム比叡という庭園美術館もある。

ガーデンミュージアム比叡

ケーブル延暦寺

午後4時34分、ケーブル延暦寺駅着。
ケーブルカーは4時半に出たばかりで、次は5時ちょうど。
午後4時台はバスの時刻がほかの時間帯と違うので、接続が悪いのかもしれない。

さっき東塔バス停で降りた人たちが、待合室に全員いた。
せっかくなので、駅舎内の凝った装飾をじっくりと見る。
タイル張り。
「ビード繰り出し状装飾」(白壁の角、折り目を金茶に光る玉で埋める)。

午後5時。
行きは「縁」号だったが帰りは「福」号。
赤と緑の塗り分けが逆になっている。

発車寸前に気づいたが、さっきまではめていた手袋がない。
どこを探してもない。
ここまで順調にいっていたのに、と、がっかりしながら山を下る。

隣に立つ外国人のお坊さんは、慌てた様子で地図を広げてあちこち見ている。
さっき改札で、駅員さんとかなり長く話していた。
どうやら八瀬行き(京都方面)のケーブルカーと乗り間違えたようだ。それはつらい。

ケーブル坂本

5時11分、ケーブル坂本駅着。
駅員さんに手袋の件を話して、確認してもらったところ、
上の延暦寺駅の待合室で見つかったそうだ。良かった。

次の便で届けてもらうことになった。
また30分待つけど、その間に、
上る際には見る時間のなかった
待合室をじっくりと見る。

照明まわりの装飾が良い。

5時30分発の便が最終便。まだ運が良かった。
3月までなら5時が最終で、もしその時期ならややこしいことになっていた。
5時41分、無事に最終のケーブルカーと、手袋が到着。
お手数おかけしてすみませんでした。

坂本ケーブル(比叡山鉄道)

ケーブル坂本駅を後にする。
山の下も、手袋が要る寒さになってきた。

今日から日吉大社の山王祭。お祭りも見たくなってきたけど、
今たまたま体調がいいだけで、いつまた疲れが襲ってくるかわからないから、
素直にまっすぐ駅まで戻ろう。

日吉大社の赤い鳥居。
今回のゲーセン紀行はここまで。
というか、この場所からスタートして
すぐ番外編扱いにしていたので、
ゲーセン紀行としては今日1日
ここから動いていない。

桜並木の中を歩いて駅へと向かう。

お祭りの屋台が並んでいる。
ちょうど高校生の下校時間とも重なり、
にぎわっている。

坂本比叡山口

京阪の坂本比叡山口駅に着いたが、今回は前を通り過ぎる。
次回以降のために見ておきたいので、JRの比叡山坂本駅までさらに歩いてみた。

すぐそばの小さなお社(日吉御田神社)に、
白装束や武者姿の人々が集結。
ちょうどお祭りが始まるようだ。

さらに先へ進むと、前方にある鳥居のあたりから勇壮な掛け声が。

大きなたいまつをかついだ、
大勢の白装束の若者たちが
通るところだった。

思わぬところで、
祭の一端に触れることができて良かった。

日吉大社

湖西道路の高架の奥に、JR湖西線の高架があり、そこに駅があった。

比叡山坂本

いったん湖西線の下を通り過ぎて、
道路に邪魔されない側から駅を撮影。

午後6時30分発の京都行きに乗ろう。
駅の周りをもう少し見たかったけど、この電車を逃すと次は7時2分までない。

やってきた電車は113系。
「シノビトレイン」と銘打たれていた。
甲賀を通る草津線と共通運用か。インパクトのある車両だ。

湖西線を南下。左手に琵琶湖がよく見える。

6時47分、京都駅着。

京都

荷物を預けていたホテルにチェックイン。
朝ドーナツ1個しか食べてないから、急にお腹が空いた。
まだ7時台だけど食事に行こう。
京都駅のKYKで、存分にトンカツを食べた。

翌13日。8時半起床。睡眠時間5時間半。

ホテルで朝食をとり、チェックアウト。
駅で聖護院八ツ橋と、千寿せんべいを買う。
千寿せんべいは、2軒目のホテル(エルシエント)でお茶菓子に出てきて、
おいしかったので。

今回の旅で、別のブログ(鉄道のるべみるべ)用に、
まだ降りてない石山坂本線の駅を回ろうかとも考えていたが、
疲れててそこまで余裕がなかった。
アクセス数を考えると、
箱根とか江ノ電とかを先に取り上げた方がいいのかなあとも考える。

(※のるべみるべはアクセス数が全然伸びないので中断中。
通り一遍の記事では検索エンジンで上位に来ないことを思い知らされる)

11時32分発の、ひかり518号に乗る。
12時46分、豊橋で乗り換え。危うく寝過ごすところだった。
途中で名古屋に止まってるはずなのに、一切記憶がない。

午後1時8分発のこだまに乗り換えて小田原へ。
2時40分着。また寝過ごすとこ。
金目鯛の鯛めしを買って、3時24分発のロマンスカーに乗る。

最新車のGSEに初めて乗るので喜んでいたが、
伊勢原から隣の席に人が座ったら、荷物を置くスペースがなくなって困った。

町田駅で下車。

延暦寺、三井寺、近江神宮などの名だたる寺社に参拝したので、
去年秋から続く不幸な出来事が収まって、幸運が舞い込んだらいいなあと思っていたけど、
東京に帰ってから1週間もしないうちに、自宅の玄関のドアが壊れた。


現在のゲーム路銀
¥2,050

今回のルート

びわ湖大津観光協会  びわこビジターズビューロー(滋賀県)
JRおでかけネット(JR西日本)  京阪電気鉄道


次回、「日本縦断ゲーセン紀行 232.滋賀編(23)」では、
日吉大社から坂本の町を縦断。
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