ゲイムマンのダイスステーション

日本縦断ゲーセン紀行

232.マサルさん助けてください!
〜滋賀編(23)〜


スタート時点での「ゲーム路銀」は、「ゲーセン」にちなんで¥5,000(G千)。
ゲーセンでゲームをプレイして、1面クリアーするごとに、
「ゲーム路銀」は¥100ずつ増える。
(ただし、1プレイ¥50円のゲームなら¥50ずつ、1プレイ¥200なら¥200ずつ。
 ゲームをプレイするためのお金も、「ゲーム路銀」からねん出する)
この「ゲーム路銀」だけを交通費にして、日本縦断を目指すのだ!
(前回までのゲーム路銀 ¥2,050


2019年12月13日。品川駅午後8時34分発のこだま687号に乗り、まずは熱海へ向かう。
自作ゲーム「霧笛があの娘を呼んでいる」取材のため、14日は熱海を回り、
その夜に京都へ移動して、15日からゲーセン紀行に入る予定。

小田急線と埼京線で座れて楽だったが、肝心のこだま自由席が空いてなかった。
デッキに立って移動。

前回、比叡山から帰って1週間もしないうちにドアが壊れたことまでは書いたが。
その後も、荷物を運んでいるとき、歩道のポールにつまずいて派手にすっ転んだり。
(ひじとすねの擦り傷だけで済んで本当に良かった。左すねにあざが残ったけど)

親の会社の税理士が、後継者を決めないまま突然亡くなり、
新しい税理士さんが決まったものの、
前の税理士の管理の杜撰さが発覚し、会社がいきなり傾いたり。

自律神経失調症が悪化したのか、腹痛を起こす頻度が上がったり。
(特に、知り合いが出演するイベントに行く途中で、最大レベルの腹痛に襲われ、
地下鉄の駅のトイレに二度三度駆け込む事態になったのがつらかった)

今年は1月に迷走神経反射性失神で倒れてから、次々と悪いことが重なり、参っている。
新たに作ったブログ「鉄道のるべみるべ」は、
検索エンジンで上位に来なくて全然アクセス数が伸びず。
10月に1本リリースしたゲームは、無料配信なのに、
まる2ヶ月でダウンロード数たったの10。自己最低記録を更新する。

あまりの疲弊ぶりに、旅行で気分転換するよう親から勧められたのが11月半ばくらい。
だがそれから体調が思わしくない(すぐ疲れる)日が幾日かあり、
回復したら今度は5日連続で雨。
その後は、小さいけど突発的な仕事が入り、そのうち病院へ行く日になり、
12月13日にやっと出発できた。

しかし、出発直前に宅配便で歳暮が来て、それが要冷蔵の魚で、冷蔵庫に入らない大きさ。
これの処理に困って、いらだって、具合が悪くなって、
午後6時に出る予定が7時になって、新幹線に乗ったのがこんな時間。

相手が扱いに困るような歳暮を贈るときは、相手が家にいるのか、事務所が留守でないか、
確認してから贈るべきだ。
ただ「物を贈る」という形だけで自己満足し、そこに心がこもっていない。
滅せよ虚礼。

熱海

午後9時13分、熱海駅着。

ホテルにチェックインし、コンビニでお弁当を買って食べた。

翌12月14日。4時半就寝8時起床。早く寝ることに慣れてない。
この日は自作ゲーム「霧笛があの娘を呼んでいる」の取材で熱海を回る。

まず初島へ。10時40分発の船は大盛況。

カモメと戯れつつ30分。

初島灯台に上って景色を眺める。

アジアンガーデン「R-Asia」。
私ははるか昔に、旅行サイトの取材で
一度だけ来たことがある。
このとき書いた記事は、
サイトの目指す方向性と違ってたみたいで、
まるごと没にされたのだが。

その後ここは大幅にリニューアルされた。
ヤシの木やリュウゼツランなどを見て、
カフェで豆鯵のスイートチリライスを食べた。

島内で、謎解きゲーム(リアル脱出ゲームっぽいの)をやっている人が多かった。
人気のアトラクションなのか。

港に向かう帰り道、熱海の街の上に、
富士山が頭をのぞかせた。
(さっき灯台からも見たけど、
そのときは雲に隠れていた)

初島に行こうよ。

風が出てきて、帰りの船はけっこう揺れた。でもまだ酔うほどじゃなくて良かった。

続いて、ロープウェイに乗り、
今年リニューアルされたばかりの
「あいじょう岬」へ。
ここも人出が多い。

突端からの景色が見やすくなった。

アタミロープウェイ

ついでに、リニューアルしてない熱海秘宝館も見る。にぎわってた。
入口に数多く掲げられている芸能人のサインの中に、
先日亡くなられた梅宮辰夫さんのものがあった。

熱海秘宝館

その後、熱海銀座や、駅前の平和通りなどを見る。
駅ビル・ラスカ熱海のお店を見て回り、喫茶店であんみつを食べて休憩。
さすがに疲れてきた。

ラスカ熱海

午後6時41分発の、ひかり525号に乗る。
今日撮った写真を確認しようと、カメラを持って、そのまま寝て、
目が覚めたらもう米原だった。

8時58分、京都駅着。ホテルにチェックイン。
コンビニで晩ごはんを買った。


京都

翌15日。8時起床。睡眠時間は4時間弱。いつもの癖で、どうも4時前に床に就けない。
ホテルで軽く朝食をとる。

10時11分発、湖西線近江今津行き。113系、セミクロスシート。
8両編成で京都に着いて、折り返し4両になる。

大津京駅で乗り換え。

京阪大津京駅から、石山坂本線10時42分発の電車に乗る。
晴れて良かった。琵琶湖の対岸の三上山がはっきり見える。

10時51分、終点の坂本比叡山口駅で下車。

坂本比叡山口

駅前の紅葉がきれい。

駅から今回のスタート地点、
日吉大社へ向かう。

参道の木々の多くは、既に葉を落としているが、
赤い葉が残っている木もまだまだある。

朱塗りの鳥居からスタート。
「奉祝 天皇陛下御即位」の
横断幕が架かっている。
今日はまず日吉大社に参詣。

入ってすぐ左にある六角堂。
子育て地蔵・早尾地蔵尊。
御本尊は伝教大師最澄が自ら彫った
石地蔵尊と伝わる。

「子育て地蔵」なのは、最澄が童子の養育に心を注ぎながら彫ったからだそうだ。
このお地蔵さまは戦国時代、人の姿に変化して、真盛上人となり、
近くにある西教寺(聖徳太子が創建したという伝説のある古寺)を再興し、
入寂後は再び地蔵尊に戻ったと伝えられている。

地蔵堂の奥の石段には、早尾神社という神社がある。
そのすぐ左にも石段があり、そこが比叡山への登山口。

求法寺走井堂。
元三大師良源が、比叡山への入山を
決意した地らしい。

神社の参道にお寺と地蔵堂があるというのが、いかにも山王信仰らしい。
ここ日吉大社は山王信仰の発祥地。
以前から比叡山の神をまつっていた当社(創建は崇神天皇7年と伝わる)は、
延暦寺が創建された際、比叡山の地主神ということで、
延暦寺や天台宗の守り神とされた。
そのため神社ではあるが、仏教(天台宗)との関わりが非常に深い。

また、延暦寺創建とほぼ同時期に、平安京への遷都が行なわれており、
この地は京の鬼門にあたることから、
京を災難から護る神社という性格も持つことになった。

ここから先は入苑協賛料¥300。
マップを頂く。日吉大社は本宮が東と西の2ヶ所あるなど、
境内の構造が複雑そうなので、このマップは助かる。

マップに書かれた参拝コースをたどり、
まず西本宮へ向かおう。
境内に流れる大宮川に架かる、
大宮橋という石橋を渡る。
重要文化財「日吉三橋」の1本。

隣に同じく日吉三橋の、
走井(はしりい)橋が見える。

独特な形の「山王鳥居」。
神仏習合の信仰を表しているらしい。
日吉大社の分霊社には、
この形の鳥居が建っていることが多い。
例えば東京の赤坂にある、
山王日枝(さんのうひえ)神社の
鳥居もこの形。

このあたりは、というかこの神社は、紅葉の名所として知られているようだ。
しかし体調と天気と仕事の都合で、旅行の予定が1ヶ月弱遅れたので、
紅葉はほぼ終わっていた。

神猿舎に本物の猿がいた。
神猿と書いて「まさる」と読む。
神の使いらしい。

インスタ映えしそうな手水鉢。

西本宮の楼門。重要文化財。
この荘厳な造りの門の中で、

猿が屋根を支えているのがユーモラス。
四隅それぞれにいる。

木の柵に囲まれた神域に、
拝殿と本殿がある。参拝。

西本宮の御祭神は大己貴神(おおなむちのかみ)。
国づくりを行なった大国主神(おおくにぬしのかみ)の別名とされる。
天智天皇が大津宮に遷都した頃の668年、大和の大神(おおみわ)神社から勧請された。

拝殿は重要文化財。壁がない。鎌倉・鶴岡八幡宮の舞殿に似てると思った。
内部に猿の絵(絵馬?)が掲げられていた。

本殿は国宝。
1586年(天正14年)に造営された。
檜皮葺(ひわだぶき)の屋根の、
正面の突き出た部分の両横に、
なだらかなカーブがかかっていて美しい。

この西本宮と、東本宮、宇佐宮の本殿は、
「日吉造」(ひえづくり)という独特の形だそうだ。
正面から見ると、お寺によくある入母屋(いりもや)造に見えるが、
背面のひさしが極端に短い。

あと、床が随分高い。
床下に「下殿」という部屋があり、かつてはここで仏事が行なわれていたそうだ。

織田信長の比叡山焼き討ち(1571年)によって、この日吉大社も全焼した。
信長の死後、これを再建したのが豊臣秀吉で、
西本宮本殿をはじめ多くの建物が、秀吉の時代の再建である。

神猿(まさる)守をお受けする。
「まさる」は「勝る」や「魔去る」に通じ、縁起が良いらしい。

ここで「マサルさん」という名前を見るたびに、よゐこの濱口優さんの顔が思い浮かぶ。
面白いし、人柄が良さそうだし、長年芸能界の第一線で活躍されているし、
奥さん若くて美人だし、……いろいろあやかりたい。
(濱口さんがそうなっているのは御本人の実力と努力)

日吉大社

横の門から出て、東本宮を目指す。
大宮竈(かまど)殿社という建物がある。

宇佐宮。ここも手前に、壁のない拝殿がある。
本殿は西本宮と同じ日吉造。
西本宮より少し遅い、
1598年(慶長3年)造営。
本殿・拝殿とも重要文化財。

祭神は田心姫神(たごりひめのかみ)。大己貴神の妃としてまつられている。
田心姫神は多紀理毘売命(たきりひめのみこと)と同じ神で、宗像三女神の1柱。
あの世界遺産、福岡県宗像市の沖ノ島にまつられている神である。
また厳島神社や、江ノ島の江島神社などでも、宗像三女神の1柱としてまつられている。

ここは「宇佐宮」という名前だが、
大分県宇佐市・宇佐神宮(宇佐八幡宮)の祭神「比売大神」も、宗像三女神とされる。
(ただし主神・八幡大神に次ぐ祭神として)
もっとも、かつて日吉大社の宇佐宮でまつられていたのは聖真子(しょうしんし)という、
比叡山の横川(よかわ)の地主神だったらしい。

見事な紅葉が残っていた。
周りには、気比社、宇佐竈殿社、宇佐若宮という
小さなお社や、校倉造の倉庫がある。

小さな滝の下に、白山宮(白山姫神社)。
この写真には写っていないが、
やはり手前に拝殿がある。
こちらの本殿・拝殿も重要文化財。
本殿の向こうに並ぶのは、
剱宮社、小白山社、八坂社、北野社。

白山宮の祭神は菊理姫神(くくりひめのかみ)。
石川県白山市の白山比刀iしらやまひめ)神社の祭神。

石段を下りる。お地蔵様がまつられている。
救済(おたすけ)地蔵と、大木の幹に隠れた忍耐(しんぼう)地蔵。

恵毘須社の前を通って、森の奥へ向かう。
マップでは真っ直ぐな道になっているが、
実際には恵毘須社のあたりで左へ曲がる。
木漏れ日の中、
森の木々の黄色と緑のコントラストが美しい。

神輿(みこし)収蔵庫の前を通る。
桃山時代から江戸時代にかけて造られた7基のおみこしは、全て重要文化財。
4月の山王祭で大活躍するおみこしだが、現在は非公開。
湿気により、保存に影響が出るかららしい。
(山王祭で使われるのは、新しく造られたおみこしだそうだ)

新田義貞の言葉が刻まれた、比較的新しそうな碑が建っていた。

1336年(延元元年・建武3年)、足利尊氏と戦う後醍醐天皇は、比叡山に陣取っていた。
後醍醐天皇軍の総大将だった新田義貞は、
皇子の恒良親王、尊良親王とともに、北陸に拠点を築こうとし、比叡山を離れる。
このときに「鬼切」という太刀を、日吉大社に奉納したと伝わる。
(鬼切は平安時代、渡辺綱が一条戻橋で鬼の腕を斬り落としたときに用いた刀とされる。
北野天満宮に現存)
石碑に刻まれているのは、その際の義貞の戦勝祈願の言葉である。

「太平記」では、この頃天皇が尊氏との和睦を画策していて、
それに気づいた義貞ら新田一族が必死に止めたとされ、
新田一族が北陸に向かったのはその直後とされる。

義貞らは敦賀の金ヶ崎を拠点とした。
(後に織田信長軍が朝倉軍と戦った際に浅井長政の裏切りに遭い、
木下藤吉郎(豊臣秀吉)がしんがりとなって撤退した「金ヶ崎の退き口」で有名な場所)
しかし翌年金ヶ崎は落城。その後、勢力は回復したものの、
さらにその翌年、藤島(現在の福井市内)の戦いで義貞は戦死してしまう。

三宮と牛尾宮の遥拝所。
お社は八王子山の上にある。
ここから登れるようだが、
さすがに山の上まで行くのはきつそうだし、
マップに「片道約30分」と書いてあるので、
ここで参拝させて頂く。

なお、最初の赤い鳥居付近からは山上の両社がよく見えたが、
ここからだと見えない様子。

ちなみに、山上のお社は重要文化財。
牛尾宮には、東本宮の祭神である、
比叡山の地主神・大山咋神(おおやまくいのかみ)の荒魂が、
三宮にはその妻・鴨玉依姫神(かもたまよりひめのかみ)の荒魂が、
それぞれまつられている。

この2社の間には、金大巌(こがねのおおいわ)という、
高さ約10メートルの岩があり、
日吉大社が創建される以前(つまり崇神天皇7年より前!?)は、
この岩に大山咋神が宿るとされていたらしい。

ここの紅葉もきれい。

日吉大社

そして東本宮である。こちらの楼門も立派。
西本宮と違って、軒下に猿はいない。

門をくぐると、正面奥に拝殿、
そのさらに奥に本殿。
比叡山の地主神、
大山咋神(おおやまくいのかみ)をまつる。

手前の左右にも建物がある。向かって左は樹下宮(じゅげぐう)。
大山咋神の妻・鴨玉依姫神(かもたまよりひめのかみ)をまつる。

そして、向かって右にあるこの建物。
何と、樹下宮の拝殿である。
この配置は珍しい。

東本宮の楼門から拝殿・本殿への道の左右に、樹下宮の本殿と拝殿が並んでいる。
本社と摂社の参道が、直角にクロスしているのだ。

樹下宮に参拝した後、本殿に行こうとしたところで、お腹が痛くなっていったんトイレへ。
近くにあって、しかもシャワーつきで良かった。
(以前、石山寺の狭いトイレに入った後で体調を崩したことが、若干トラウマになってる)
気づいたらもう午後1時近い。

あらためて東本宮本殿。大山咋神にお参り。
本殿は1595年(文禄4年)造営。
西本宮本殿と同じ日吉造(ひえづくり)。

本殿は国宝。拝殿、楼門、樹下宮の本殿と拝殿は重要文化財。

本殿の奥に、亀井霊水という井戸と、
樹下若宮、新物忌社、大物忌神社と早尾神社(合祀)、稲荷社。

夫婦円満の神木、
夫婦梛(なぎ)のあたりが工事中。
手前が雌梛。隣に二宮竈殿社。
その奥に似たような木が見えるが、
あれは梛ではなくて、
多羅葉(たらよう)という別の木らしい。

雄梛は、さっきの樹下神社拝殿を挟んだ
向こう側(楼門寄り)に立っていた。
隣は内御子社。

夫婦梛が隣り合ってなくて、別の木と大きな拝殿が間に挟まっていたり、
夫婦神の参道が直角に交差していたり、東本宮の夫婦の並び方は不思議。
夫婦の形はいろいろあっていい、という教えなのだろうか?

ちなみに、この夫婦梛の葉が一対入っている、梛の葉守というお守りがある。

東本宮の楼門を出て、石段と坂を下る。
途中に須賀社、岩瀧社。
岩瀧社は、隣にある大きな岩をまつっているようだ。

そして、猿がしゃがんでいるように見える
「猿岩」(猿の霊石)。
あごのあたりが特に猿っぽい。

西本宮の楼門の前にも、まつられている岩が複数あったが、
もともと、山そのものに対する信仰から始まったことが、
こうした岩への信仰につながっているのだろうか。

さらにその下に、八柱社、氏神神社、氏永社。

二宮橋という石橋がある。
大宮橋、走井橋とともに
「日吉三橋」の1本で、重要文化財。
現在は山王祭のときにだけ使われる。
なので隣の橋を渡った。

スタート地点の鳥居に戻って、
八王子山の上の、三宮と牛尾宮を撮影。

日吉大社

日吉大社を後にして、次に日吉東照宮へ向かう。

坂本ケーブルの坂本駅の前。
駅には向かわず、左へ進んで橋を渡る。

凄い上り坂だ。
案内板が多いから迷わないけど、
書かれている言葉が、
この先の苦労を予想させる。

とはいえ、道のりは思いのほか短く、最後の石段を上ると、

日吉東照宮の正面に突き当たった。
小さいながらも、日光や久能山の東照宮に
勝るとも劣らない装飾が施されている。

日吉東照宮は1623年(元和9年)、天海により創建された。
現在の社殿は、寛永年間に再建されたもの。重要文化財。
本殿と拝殿を、石の間(本殿・拝殿より低く造られた幣殿)でつなぐ
「権現造」の元祖とされる。(久能山東照宮が元祖という説もある)
1634年(寛永11年)に日光東照宮が改築された際、その原型になったといわれる。

石の間が低くなっているのは、祭典が行なわれるとき、
石の間にいる神職が、拝殿にいる将軍に背を向ける形になるので、
それでも失礼にならないようにという配慮からだそうだ。

延暦寺の根本中堂も、僧侶のいる内陣が低くなっているので、
どちらかがどちらかに影響を与えたのかもしれない。
現在の根本中堂は、まさに徳川家光と天海によって、1634年から再建が始まった建物だが、
信長の焼き討ち前の根本中堂も同じ構造だったのだろうか?

もとは延暦寺の管轄下だったが、明治の神仏分離令に伴い、日吉大社の末社となった。

今日は日曜日なので、
中を拝観することができた。
(土日祝の午前10時から午後4時まで
拝観可。拝観料¥200)
唐門から中に入り、
色とりどりに彩られた拝殿を
間近で鑑賞する。

さらに、拝殿の中に入って参拝できた。
内部も、金箔地の壁に人物画が描かれるなど、
きらびやか。

神社のかたの話によると、
拝殿正面上の虎と、その下の龍は、
それぞれ徳川家康と家光の
干支にちなんでいるそうだ。

建物は東を向いている。
正面に琵琶湖と三上山が見える位置を選んで建てられたそうだ。

実際、帰りに石段の上から見えた景色は、
まさにその通りの絶景。素晴らしかった。

日吉東照宮

急な石段。気をつけて下りる。
以前訪れた、天海をまつる慈眼堂がこのすぐ下にある。
だがそちらには向かわず、途中で左に折れて、再び日吉大社の参道へ。
石段をかなり下ったはずなのに、さっきのケーブル坂本駅のすぐ近くの道に出てきた。

日吉大社の朱の鳥居から、坂をまっすぐ下っていく。
案内板によれば、左に1キロほど行くと、西教寺に行けるらしい。
聖徳太子が創建したという伝説があるほどの古刹で、
室町時代に真盛が再興して栄えるようになった。
(真盛は、今日最初に訪れた六角堂のお地蔵様が、
姿を変えて人になったという伝説のある人物)
また、明智光秀とゆかりが深く、明智光秀一族の墓がある。

1キロなら行けなくもないと思ったけれど、この先ほかにも行きたい所があったので、
西教寺には立ち寄らなかった。

西教寺

日吉参道に生える1本の大きな木が、
まだ赤い葉を残していて鮮やかだった。

秋の夕日に照る山紅葉。
冬だし、まだ午後2時台だけど。

坂本比叡山口駅の近くまで戻ってきた。
生源寺(しょうげんじ)に参拝。
この場所が伝教大師最澄の生誕地だそうだ。

解説の絵看板が立っている。
最澄は、三津首(みつのおびと)一族の
首長・百枝(ももえ)と、
藤子夫人との間に生まれた。
幼名は広野(ひろの)。

三津首一族は、中国・後漢の孝献帝(三国志で、曹操の子の曹丕に禅譲した皇帝)の
子孫とされる。
百枝は子供を授かるべく、比叡山のふもとの草庵に一週間こもったところ、
5日目に瑞夢を得られたという。
最澄が生まれた8月18日には、坂本の地に蓮華の花が降り注いだそうだ。

伝教大師産湯の井戸。
最澄の童形像が建つ。

観光案内所の前を通り、坂本比叡山口駅に戻ってきたが、
ここも通過してなお坂を下り、JRの比叡山坂本駅を目指す。

駅の横に、日吉茶園という、生け垣みたいな細長い茶畑がある。
最澄が、唐から持ち帰ったお茶の種を、この場所に植えたのだそうで、
それが日本に初めてもたらされたお茶だそうだ。

その茶園に沿って、のぼりが並んでいる。

ようこそ びわ湖大津へ
明智光秀ゆかりの地
2020年大河ドラマ「麒麟がくる」

そういえば、もうすぐ次の大河ドラマが始まる頃か。だいぶ先だと思っていたけど。
(※後で気づいたが、この日は「いだてん」最終回のオンエア日だった)

続いて、公人(くにん)屋敷・旧岡本邸へ。
(入館料¥100)

入口に、大津市のキャラクター
おおつ光ルくん。
実は石山寺あたりから、何度か見かけてはいたのだが、
何となく、このサイトで取り上げる
きっかけを逸していた。

江戸時代の1864年(元治元年)の建物が、きれいに保存されている。
公人とは、妻帯と名字帯刀を認められた延暦寺の僧侶で、
坂本の年貢・諸役を収納する寺務を務めていたそうだ。

坂本は延暦寺の寺領だったので、幕府や大名が直接支配せず、
武士の代わりに公人が、町の役人を務めていた。
延暦寺の支配のもとで、坂本全体の行政をになう公人の「大年寄」が5人いて、
さらに各町ごとに「年寄」(四至内(しいしない)年寄)がいた。

当時の公人の屋敷は、割と多く現存しているそうだが、
どこも内部が相当改装されているとのこと。
この岡本邸は、江戸時代の状態がかなり残っているらしい。
2001年(平成13年)、岡本家から大津市に寄贈され、
保存改修工事が2004年に完工。翌年、大津市指定文化財となった。

中に入る。とても広くて立派な造り。
パンフレットに載ってる英訳が「Okamoto Mansion」だが、うなずける。
ただし江戸時代の建物なので、天井は低い。
ふすま絵も見事。江戸時代中期の絵師・横井金谷(きんこく)の作品。
(ここにあるのは複製で、実物は大津市歴史博物館蔵)

展示品も数々ある。
日吉大社の山王祭の、金棒引きの装束。
坂本の銭座に関する展示(貨幣鋳造所。また江戸の金と大坂の銀を交換していた)。
明智光秀の居城だった、坂本城跡の写真。
よろいかぶと。日吉大社の双葉葵の紋が入った鏡。
光秀愛用と伝わる手あぶりも。

主屋の奥から外に出ると、
蔵と馬屋があった。
蔵には年貢米を蓄えていた。
馬屋は、滋賀院門跡などを訪れる
上級武士の馬を預かるために必要だった。

主屋と馬屋の間に、離れが1棟あったが、解体されている。

公人屋敷(旧岡本邸)

主屋の土間にあった椅子で少し休憩。
午後3時。再び歩き出す。
前回、山王祭の大きなたいまつを見た、石の鳥居の横を通ってさらに先へ進む。

茶色い看板のセブンイレブンの前を通る。

湖西道路の高架の隣に、
JR湖西線の高架が見えた。

比叡山坂本

高架と高架の間に、
JR比叡山坂本駅の駅名板。
駅が目立たない。

なのでいったん高架をくぐり、
逆側にあるロータリーから、
あらためて駅舎を撮影した。

駅の北側に、
「坂本石積みの郷公園」という一角あり。
穴太(あのう)積みの石垣がある。

石垣と鐘楼と紅葉と池が、
小さな空間にまとまっていて、いい景色。

(※後から知ったが、この鐘はもともと、最澄の生まれた生源寺にあったもので、
織田信長の焼き討ちの際、緊急事態を知らせるために、鳴らされ続けてひび割れたそうだ)

「若き日の最澄」像。
最澄の「最」が異字体で書かれている。
延暦寺に残る、最澄直筆の「天台法華宗年分縁起」や、
同時代の文献には、この字が使われているらしい。
ぱっと見、「寂」の字に見え、
「じゃくちょう」と読んでしまった。
瀬戸内じゃくちょうさんは「寂聴」だ。

この近くに平和堂があるようなので、行ってゲームコーナーがないか探してみよう。

徒歩5、6分で、平和堂坂本店に到着。

3階にゲームコーナー・アソボックスがあると書いてあるので向かった。
同じ階に、体操や卓球、麻雀・オセロ・囲碁・将棋のできるスペースがある。
今ちょうど、ボッチャの体験会が行なわれているようだ。

別の場所に、白い布で塞がれた一角があった。
……見た感じ、多分ここがアソボックスだ。
ごく小さなプライズゲームが、わずかに残るのみだった。

フードコートかレストランがあれば、食事をとりたかったが、
そっちの当ても外れた。

比叡山坂本駅に戻る。
ガード下から比叡山の方をもう一度見る。
真ん中の山をよく見ると、
日吉大社のお社っぽいのが見える。
あれが八王子山か。

午後4時15分、比叡山坂本駅に着いた。
この先、ゲーセンのありそうな町があるので、もう少し北へ進もう。
次の下り電車は4時29分発の近江舞子行き。

ホームに上がる。東に琵琶湖と三上山。
西に湖西道路。比叡山の上の方が見えた。

「1994年 世界文化遺産登録 比叡山延暦寺」
という、天台座主の文字が掲げられていた。
(梅山圓了座主か?)

やってきた電車は113系4両編成。
混んでたが、この駅で多くの人が降りた。

出発。さっきの平和堂が左に。
トンネルに入ったり、また出たりを繰り返す。
やがて家々と琵琶湖が見えた。

おごと温泉駅で、また多くのお客さんが降りた。
私も旅の予定を考えるとき、おごと温泉に行くか行かないかは随分迷った。
あるホテルのゲームコーナーが、割と大きそうなのだ。
でもそのホテルは、空いてない日が多くて、そこに1泊するとなると、
前後の予定が立てにくかったので、今回は通過しますごめんなさい。

おごと温泉観光協会

そういや前日、熱海にいたのに温泉入ってない。

またトンネルを通過。2度目の短いトンネルの後、
町と琵琶湖が見えた。けっこう大きな町だ。

午後4時36分、堅田駅着。
ここで降りた。
ゲーム路銀 ¥2,050-¥200=¥1,850

〜おごと温泉〜
堅田(かたた)

日本縦断のルートからはかなり外れるけど、
この周辺にゲーセンやゲームコーナーが
3軒ほどあるみたいなので、ここまで来た。

今日は駅前のアルプラザ堅田へ。
そこそこ遅い時間なので、
あとの2店には明日行くことにしよう。

お腹が空いたので、ゲームコーナーへ行く前に、
まず3階のフードコートへ。
スガキヤ特製ラーメンを食べる。
東海地方からかなり離れた場所で、スガキヤ食べるのもどうかと一瞬思ったが、
うまいから良し。

このフードコートから、
堅田駅がよく見えた。
緑色の電車(117系か?)が
やって来たところ。

フードコートの隣が、ゲームコーナー
「スキップパーク」だった。

のりものが多い。あとメダル。もちろんプライズも。
プリ機2台、バスケ、太鼓の達人、ワニワニパニック3、マリオカート2。
仮面ライダーのガンバライジングとナレルンダーが、ゼロワン仕様になっている。

で、私がプレイできそうなのが太鼓の達人しかないけど、
1台しかなくて、家族連れが楽しんでる。
空くまで待つこともできるが、疲れたし、明日また別のゲーセンに行く予定なので、
今日はここまで。

駅に戻る。交番の横に、志賀廼家淡海(しがのや・たんかい)顕彰碑が建っていた。
明治末期から昭和中期にかけて活躍した喜劇俳優で、
「淡海節」という歌で人気になったそうだ。

午後6時9分発の京都行きで、宿泊地の京都へ帰る。113系8両編成。
今日乗った湖西線の車両は全部113系。
ただ今回は8両あったので、京都まで座って行けた。
6時33分、京都着。短い乗車時間だったけど、まあ寝た。

ホテルに帰ってまた少し寝た後、晩ごはん。
京都は午後9時近くでも、開いてるお店が多くて助かる。
鴨なんばそばを食べた。しょうが風味でうまかった。


現在のゲーム路銀
¥1,850

今回のルート

びわ湖大津観光協会  びわこビジターズビューロー(滋賀県)
JRおでかけネット(JR西日本)  京阪電気鉄道


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琵琶湖に突き出すお堂と琵琶湖大橋。
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