ゲイムマンのダイスステーション

日本縦断ゲーセン紀行

240.百夜後に死ぬ深草少将
~京都編(6)~


スタート時点での「ゲーム路銀」は、「ゲーセン」にちなんで¥5,000(G千)。
ゲーセンでゲームをプレイして、1面クリアーするごとに、
「ゲーム路銀」は¥100ずつ増える。
(ただし、1プレイ¥50円のゲームなら¥50ずつ、1プレイ¥200なら¥200ずつ。
 ゲームをプレイするためのお金も、「ゲーム路銀」からねん出する)
この「ゲーム路銀」だけを交通費にして、日本縦断を目指すのだ!
(前回までのゲーム路銀 ¥810


京都

2022年6月12日。昨日と同じく8時半起床。
昨日より1時間早い3時半に寝たので、睡眠時間5時間。
昨夜コンビニで買った、ちぎりパンを食べる。

昨日とはうってかわって良く晴れている。
でも風が涼しくてさわやか。

今日のスタート地点の醍醐へ、山科経由で向かおう。
10時11分発の電車に乗る。近江舞子行き、つまり琵琶湖線じゃなくて湖西線。
緑色の113系。4両編成のクロスシートなのでやや混んでるが、
1駅ぶんの5分だけしか乗らないからいいか。

京都-山科間は何度も通っているが、なかなか明るい時間帯に通る機会がなかった。
車窓から景色をよく見てみよう。
駅を出てすぐ鴨川を渡る。右に新幹線が見えた。
何本かの線路が並行していたが、だんだん少なくなり、長いトンネルに入る。

トンネルを出たら左右に住宅地。
高架なので遠くまで見渡せる。住宅地の向こうの山々まで見える。
右手に京都薬科大学。

10時16分、山科駅着。

地下鉄東西線、10時28分発の六地蔵行きに乗り換える。50系5110。

10時36分、醍醐駅着。
今日はここからスタート。

醍醐(だいご)

駅ビル・パセオダイゴローの2階から、
昨日と同じ道を通って醍醐寺へ向かう。
日差しを遮るものが少なく、
早くも少々暑い。

パセオを出てから12分後の
11時1分、醍醐寺到着。
総門をくぐってすぐの「桜の馬場」は、
開花時期には景色も人通りも、
にぎやかなんだろうなと思う。

昨日と同じく、伽藍エリアと三宝院庭園の入場券(¥1,000)を買う。

三宝院には昨日も来たが、
せっかくのセット券なので、
豊臣秀吉が造った庭を今日も見てみた。
晴れているので、
昨日とは少し雰囲気が違う気がする。
空の青とか砂の白とかが鮮やか。

醍醐寺

桜の馬場に戻り、正面の西大門へ向かう。
昨日時間切れで入れなかった、伽藍エリアへ。
すぐ手前まで木々の枝が張り出していて、
全体を撮影しにくいが、
立派な仁王門がそびえる。

西大門(仁王門)は、1605年(慶長10年)に、豊臣秀頼が再建した。
東寺の金堂や、北野天満宮の社殿に続いて、また秀頼である。
この醍醐寺は、豊臣家との関係が特に強かったお寺で、
三宝院の庭園を造ったのは秀吉自身だし、醍醐寺本堂の再建も秀吉の指示によるもの。

応仁の乱以降、荒廃しかけた醍醐寺を救ったのが豊臣秀吉。
醍醐寺座主の義演と親しかった秀吉は、
1598年(慶長3年)、いわゆる「醍醐の花見」を開催した。
この際に伽藍をかなり整備し、700本もの桜の木を植樹している。
参加者は1,300人以上で、そのほとんどが女性。
諸大名や武士たちは、スタッフとしてイベント運営にあたったという。

秀吉が正室・北政所(おね/ねね)と、側室たちを集めて、酒宴を催した際、
淀殿と松の丸殿が、ここで杯を受ける順番を争ったという伝説が知られている。
なお、秀吉はこの花見の5ヶ月後に死去し、結果的にこれが人生最後の晴れ舞台となった。

仁王像は、もと南大門にあった像で、
門よりも古い1134年(長承3年)、
勢増、仁増という仏師により造られた。
重要文化財。

ここから有料。さっき三宝院で買ったチケットで入る。

広いエリアにポツンポツンと
諸堂があるのかと思ったら、
モミジが両側から道に向かって
折り重なるように生えている。
木陰があって涼しい。

ただし、木々の奥の敷地は、
切り株の並ぶ原っぱになっていた。
2018年(平成30年)の台風で被害に遭い、
森の木々がなぎ倒されたそうだ。

いろんな人から奉納された、若い木々の並ぶクランク状の道を抜ける。

清瀧宮本殿は重要文化財。
醍醐寺の総鎮守である清瀧権現をまつる。
もともとは山の上にある「上醍醐」の、
醍醐水の近くにまつられていたが、
1097年(永長2年)に分祀され、
こちらにも社が建てられた。
その後、文明年間に焼失し、
現在の社殿は1517年(永正14年)の再建。

清瀧宮拝殿。
1599年(慶長4年)に義演が建立した。
周りが丹塗りの建物ばかりの中、
この拝殿だけが茶色い。

醍醐寺は874年(貞観16年)、聖宝(しょうぼう)(理源大師)により開創された。
山中に清らかな湧き水の出る地を見つけ、ここに寺院を建てたのが始まりだという。
この水は醍醐(仏教用語で、最もおいしい味のもの)に例えられて
「醍醐水」とよばれ、寺の名前も醍醐寺となった。

清瀧宮の向こうに、五重塔がひときわ目立つ。
高さ38メートル。国宝。
15年もの歳月をかけ、951年(天暦5年)に建立された。
京都府内最古の木造建築だそうだ。

五重塔は、醍醐天皇(930年(延長8年)崩御)を追悼するため建てられた。
醍醐天皇は、醍醐寺の准胝(じゅんてい)観音に、子供を授かるよう祈ったところ、
穏子皇后との間に皇子が生まれた。
このことで天皇は醍醐寺に深く帰依するようになり、同寺を勅願寺とした。
観音菩薩のほかに薬師如来をまつって、人々を病から救うよう、聖宝に命じている。
また山裾に釈迦堂を建てるよう希望し、現在の「下醍醐」の基礎を作った。

勅願寺が醍醐寺だったことに加え、崩御後に醍醐寺のそば(山科陵)に葬られたため、
「醍醐天皇」と諡(おくりな)された。

(※実は醍醐天皇には、早くから多くの皇子・皇女がいた。
だが皇太子だった保明(やすあきら)親王は、923年(延喜23年)に20歳で薨去している。
醍醐寺の准胝観音に子授けを祈ったのは、この頃かもしれない、と思ったが、
その時点では聖宝も既に亡くなっており、
また上醍醐に薬師堂が建てられたのは保明親王存命時だ)

五重塔を建てたのは朱雀天皇。醍醐天皇が授かった皇子である。
しかし完成前に朱雀天皇は病気のため譲位。跡を継いだ村上天皇の時代に完成した。
村上天皇は朱雀天皇の弟で、同じく醍醐天皇と穏子皇后が授かった皇子の1人だ。

醍醐天皇は政治家としてかなり有能だったようで、
その治世は「延喜の治」と呼ばれ称えられている。

もっとも、あの菅原道真を大宰府に左遷した天皇でもあり、
保明親王が薨去すると、醍醐天皇は道真の祟りを恐れるようになった。
保明親王薨去の年で、道真の死後20年目となる923年(延喜23年)、
天皇は道真に官位を追贈したが、
その2年後に保明親王の王子で、皇太孫だった慶頼王も薨去。
そして930年(延長8年)、宮中の清涼殿で会議中に雷が直撃し、公卿らが多数死亡した。
醍醐天皇自身は、このときは難を逃れたが、
ショックからか間もなく病を患い、3ヶ月後に崩御した。

醍醐寺

五重塔の北側に建つのが、
同じく国宝の金堂だ。
醍醐寺全体の本堂にあたる。
一部改修されているが、
平安時代に造られた建物。

豊臣秀吉により、「醍醐の花見」と同じ1598年(慶長3年)に、
紀州・湯浅の寺院から、このお堂の移築が計画された。
ただし移築が完了したのは、秀吉没後の1600年、秀頼の時代。

薬壺を手にした薬師如来坐像(重要文化財)、日光菩薩・月光菩薩、
四天王像が安置されている。
御本尊が薬師如来様なので、人々の健康と安寧をお祈りする。
もちろん、ここしばらく心身ともに状態が今一つ良くない自分のことも含めて。

このお寺には、現世利益をもたらしてくれるとされる仏様が多いらしい。
どの仏様がどんな願いを叶えてくれるか、一覧にまとめたパンフレットがある。

金堂の近くに鐘楼が建つ。
小さな宝篋印塔も並ぶ。新旧さまざま。

金堂側から見た五重塔。
あらためて手を合わせる。
この複雑な木組み、建築技術が、
平安時代初期からあったとは。
(まあ確かに、奈良時代には既に
法隆寺の塔があったわけだけど)

北側に不動堂。
不動明王をはじめとする五大明王をまつる。
正面の石像がインパクトある。

石像の前に、石で作られた円形の壇。
中心には炭のようなものが。
ここで修験道の柴燈護摩(さいとうごま)が、
たかれるらしい。
屋外での柴燈護摩は、
醍醐寺の開祖・聖宝が始めたとされる。

不動堂の中には、小さな仏像と、お札、軸、曼荼羅、
五大明王の名前が入った提灯などが安置されていた。

修験道の開祖とされる
役行者(えんのぎょうじゃ)の像が、
細い道の途中にある。

この道の先に、真如三昧耶堂(しんにょさんまやどう)という、
1997年(平成9年)に建てられたお堂があった。
金色の涅槃仏がまつられている。

広い道に戻って、祖師堂へ。
1605年(慶長10年)に義演が建立した。
空海(弘法大師)と、その孫弟子で、
醍醐寺の開祖、聖宝(理源大師)をまつる。

空海さんも聖宝さんも讃岐国の出身。
どうか香川県にこれ以上、悪がはびこりませんように。

醍醐寺

旧伝法学院。花頭窓の並ぶ細長い建物がある。

その奥に、内部が大きく壊れた建物があった。
ここも、2018年の台風の被害に遭ったのだろうか?

下醍醐のここから奥は、総称して大伝法院と呼ばれる。
建物はいずれも1930年(昭和5年)、実業家・山口玄洞の寄進によって建てられた。
山口玄洞は、多くの学校、病院、インフラ、災害復興支援、寺院などに、
多額の寄付をした人らしい。
まさに「日本のカーネギー」である。
比叡山延暦寺東塔の阿弥陀堂なども、山口玄洞の寄付で建立されたらしい。

……私も、ゲーム制作なり何なりの事業で成功して、儲けることができていたら、
こんなふうに社会に貢献したかったなあ、と思う。
特に『横浜妖精奇譚』を作ったときは、制作中に東日本大震災が起こったこともあり、
これがヒットしたら義援金が出せると思って頑張ったのだが……。

日月門をくぐって、観音堂へ向かう。
日月門に引っかき落書きが目立つのが、
ちょっと残念。

ここの鐘楼も立派。

観音堂は、大伝法院の中心となる建物。
正面の石段は塞がっているが、裏から入れる。
外回廊に行列ができていた。
御朱印待ちだろうか?

観音堂はもともと大講堂だった。
2008年(平成20年)、山上の上醍醐にあった准胝(じゅんてい)堂が落雷で焼失し、
御本尊の准胝観音が、この大講堂に移された。
それ以来、観音堂と改称されている。

観音堂の中へ入る。行列はやはり御朱印待ちだった。
正面中央には大きな阿弥陀如来。
准胝観音は見当たらない。手前の厨子の中におられるのだろうか?

阿弥陀様の左右および正面に、金色の仏様。その左右にも仏様が2尊ずつ。
向かって左端は明らかに大黒様。右端はお地蔵様か?

お遍路さんに似た装束の女性が、一心に祈りを捧げている。
ここ醍醐寺は、西国三十三観音の第十一番札所。
四国ではよく見かけるが、西国三十三所でも、
本格的な巡礼の方がいらっしゃることに、何だか心を打たれる。
そういえば大津の園城寺(三井寺)でも、巡礼の方を見かけていた。

お守りをお受けする。
どれにするか迷いに迷って、ここでこんなに迷ってる時点で、なんかダメだなと思う。
弥勒菩薩、薬師如来、准胝観音、五大明王など、個々の仏様に関連したお守りが中心で、
1つ2つに決めきれないのだ。
結局無難に、小さな開運守を選ぶ。桜の形をした鈴がついていた。

あともう1つ、対極的に、物凄く攻めたグッズも購入。それは……

この「宇宙鎮護」ステッカー。
昨日、三宝院でも解説展示を見かけて、
気になっていたが、
「浄天院 劫蘊寺(ごううんじ)」という
宇宙寺院を建立するプロジェクトが
進行中だそうだ。

大日如来像と曼荼羅を、人工衛星に搭載し、2023年に打ち上げて、
宇宙寺院「浄天院 劫蘊寺」とする計画。
醍醐寺では毎月「宇宙法要」を行なっており、
人々から募集した祈願をデータとして衛星に記録している。
衛星が打ち上げられた後も祈願の募集は続け、衛星に転送する予定だとか。

確かに大日如来は、宇宙そのものを表した仏様なのだが、
歴史と伝統のある醍醐寺が、これだけ攻めた企画に携わっているというのは面白い。

浄天院劫蘊寺

観音堂のさらに先には、
池と太鼓橋と弁天堂。
今もきれいだけど、
紅葉の季節の眺めは格別だろう。

そのさらに先に、上醍醐エリアへの入口がある。
上醍醐は醍醐寺の開創の地で、今も「醍醐水」が湧き出しており、
国宝の薬師堂、清瀧宮拝殿、重要文化財の如意輪堂、開山堂など、
山の上に立派な諸堂が並んでいるらしい。
でも、ここから1時間ほど登山になるらしいので、上醍醐まで行くのはやめといた。

醍醐寺

午後1時。弁天堂の隣に食堂があるのでお昼にしよう。
畳敷きの床に椅子。くつろげる。あと涼しい。
ゆば丼を食べながら、
「ここに秀吉と秀頼とねねと淀と松の丸と利家とまつが、お花見に来てたのかあ」と
感慨にふける。

ゆば丼のあんかけだしの味が薄かった気がするけど、これが京風なんだろうか?
乗っているショウガの味が勝つ。あと、ご飯と混ざることで、湯葉の食感も消える。
でもひとまず休めたし、腹ごしらえできた。店を出て桜の馬場まで戻る。
(※後で食べログを見てみたら、ゆば丼の評判は悪くないようなのだが)

桜の馬場から、昨日は北の三宝院、今日は東の下醍醐を回り、残るは南の霊宝館。

霊宝館には、国宝や重要文化財を含む、
貴重な仏像、絵画、工芸品、古文書などが
収蔵されている。
といっても、本館と平成館は休業中。

そのかわり、仏像棟が無料で拝観できる。

仏像棟の中央に、五重塔の模型があり、周囲の壁を諸仏が取り囲む。
快慶作の不動明王の目力が凄い。

平安時代の五大明王像が、特に印象に残った。
ほかであまり見たことがないような造形(特に顔)。不思議な迫力がある。
永井豪先生の作品とか、カイジとかをほうふつとさせる。
同じ不動明王でも、快慶のものとは全く違うし、
同じ平安時代のほかの仏像とも違う。さっき見た西大門の仁王像にはちょっと近いかも。

醍醐寺

やっぱり醍醐寺は凄かった。さすが世界遺産。
午後2時17分、総門を出た。
目の前を横切る道が旧奈良街道。右へ歩き、旧奈良街道をひたすら北上して、
次の目的地へ向かおう。

小さな石仏が、数十体まとまって安置されている一角があり、ちょっとびっくりした。
昨日、藤森神社で見た仏像と似ている。
あれは神輿蔵を改修する際、地面を掘ったら大日如来像が出てきたらしいが、
こちらの石仏も掘ったら出てきたんだろうか?

小さな建物の壁に、真っ青に色あせた交通安全ポスターが貼られている。
以前(2015年)、大垣城入口の建物で見た、猿岩石さんのポスターを思い出した。
既に有吉弘行さんが再ブレイクして久しい。多分10年以上貼りっぱなしだったんだろう。

だからこっちの交通安全ポスターも、そのくらい古いものなのかと思ってよく見たら、
写っている女性の右下に、
「宇垣美里」と書いてあった。
最近じゃん。
何で宇垣さんの写真が、10年以上経ってるかのように色あせるんだ。

そんな、『モヤモヤさまぁ~ず2』に出てきそうな、
というか一時期やってた『あさモヤ』に出てきそうな、
気になるものをいくつか目にしながら、
旧奈良街道をぶらぶらと歩いていたら、
ぴったり15分。思っていたより早く、
次の目的地、隨心院(ずいしんいん)に
着いちゃったんだよね。

小野

隨心院に、入ってみるみたいですよ。

古い木の立て札に、手書きの文字が書いてある。
「小野小町化粧の井戸
 この付近は小野小町の屋敷跡で、この井戸は小町が使用したものと伝う。」

矢印の方向に行ってみると、境内の隅っこに、
小さな石垣で作られた井戸があった。
手前の石柱に、
「小野小町化粧井戸」と刻まれている。

ここは小野氏にゆかりのある土地らしい。
小野小町は仁明天皇に仕えていたが、仁明天皇は850年(嘉祥3年)崩御。
小町はそれから間もなく宮仕えを辞め(隨心院のパンフによると仁寿2年(852年))、
この地で余生を送ったと伝わる。
ただし晩年に京都を離れ、諸国放浪の旅に出たとされる。
そのせいか、隨心院に小野小町の墓はない。

小野小町がここを離れて百年ほど経った991年(正暦2年)、
真言宗の仁海僧正がこの地を賜り、牛皮山曼荼羅寺を建立した。
その後、増俊僧正が曼荼羅寺の子房として隨心院を建立。
1229年(寛喜元年)、後堀河天皇の宣旨により、隨心院は門跡寺院となる。

曼荼羅寺・隨心院は、承久の乱と応仁の乱で被害を受け、
ほぼ焼失してしまった。
1599年(慶長4年)、もと曼荼羅寺のあった当地に、隨心院の本堂が再建され、
さらに江戸時代、九条家・二条家からの寄進を受けて復興した。

隨心院

門から入ってすぐの所が小野小町の邸宅跡で、
お寺の建物にたどり着くより早く、
小町化粧の井戸を見つけてしまった。

昨日、深草少将の邸宅跡とされる墨染の欣浄寺には入れなかったのに、
その深草少将が百日近く通ったあげく、結局中に入れてもらえなかった
小野小町の邸宅跡は、何でこんなにウェルカムなんだ。高嶺の花じゃなかったのか。

そもそも深草少将の「百夜(ももよ)通い」の舞台が、ここじゃないという説もある。
秋田の湯沢市(旧雄勝町)という説や、熊本の植木町という説など。
まあ深草少将自体が架空の人物とみてほぼ間違いないので、
どの説もおそらく事実じゃないんだけど。
ただ、「長年の片想いがいくら努力しても実らず、しかもそのせいで死んでしまう」
という深草少将が、どうも他人とは思えないのだ。

隨心院に伝わる「百夜通い」の伝説は、おおむね次のとおり。
仁明天皇が崩御されたのを機に、更衣だった小野小町は852年(仁寿2年)、
宮仕えを辞し、父・良実の宅地だった、現在の隨心院の場所に隠居した。

この時点で既に小町は30歳を過ぎていたのだが、
小町を深く愛していた深草少将は、彼女へ自らの想いを伝えた。
(平安時代なので、手紙でのやり取りだったはずだが、
深草少将はもしかしたら、自ら小町の屋敷まで、手紙を持って行ったかもしれない)
小町には全くその気はなかったが、少将がしつこかったためか、
「ここへ百夜、休まず通い続けたら、その想いを受け入れましょう」と告げる。

(※ただし隨心院境内の説明板には、この条件は少将の方から言い出したと書かれている。
同じ隨心院による解説でも、パンフレット、サイト、現地の説明板、YouTube等で、
百夜通いの細部に若干の違いがある)

少将は言われた通り、毎夜小町の家の前へ通い続け、
訪ねた証として、榧(かや)の実を1日1個ずつ置いていった。
だが99日目、少将が体調を崩した上に、その夜はたいへんな大雪で、
少将は無理をして小町の家へ向かったが、途中で凍死してしまった。

さすがに哀れに思った小町は、供養の意味で少将の榧の実を小野の郷にまいた。
榧は生長して、少将が持っていた1個の実も含め、99本の大木になったという。

これは昨日訪れた藤森神社の榧の木だが、
少将の榧も、こんな感じに生長したかもしれない。
藤森神社も小野や墨染から近いのだが、
小野の地には小町ゆかりと伝わる榧の木が、
ほかに2本ほど存在するらしい。

数多の男たちの誘いを
むげに断ってきた小町は、
その報いから晩年は不遇だったとされる。
小倉百人一首に選ばれた、最も有名な歌が、
「花の色は 移りにけりな いたづらに
わが身世にふる ながめせしまに」
だったことも、
己の美貌の衰えを嘆く小野小町という
イメージが形作られた一因かもしれない。

ただし、小町が「更衣」だったとされる(これも確実ではないのだが)ことに
留意しなければならない。
更衣とは天皇の着替えを担当する役職だったが、仁明天皇の父の嵯峨天皇の頃から、
やや身分の低い后妃を指す言葉となった。
実際、仁明天皇には、三国町という更衣との間に男子がいた。
またその三国町と密通したとして、側近だった藤原有貞を左遷している。

隨心院の現在の門跡、亀谷英央師は、著書『小町』の中で、
小野小町が男性たちの求愛を受け入れなかったのは、
仁明天皇に操を立てたからではないかと考察している。
また、小町は後に再び宮中に迎え入れられていて、
73歳のとき、神泉苑で雨ごいを行なったと書いている。
(実際、神泉苑には、小町が詠んだ雨ごいの歌が伝わっている)
ということは、小町は晩年もそこまで不遇ではなかったということになる。

小町は晩年、諸国を放浪したという伝説があるせいか、全国各地に小町の墓がある。
京都市内では、叡山電車の市原駅近くにある補陀洛寺(ふだらくじ・小町寺とも)が、
小町終焉の地とされている。
補陀洛寺では、小町の遺骸は埋葬されなかったと伝わっているらしい。

(※仏教で、死体が朽ちていく様子を描いた「九相図(くそうず)」には、
小野小町を描いたものが多い。
ただし、「我死なば焼くな埋むな野に捨てて 痩せたる犬の腹を肥やせよ」と、
小町本人が遺言したともいわれている)

(※補陀洛寺では、小町のドクロの下からススキが生えて目の穴を貫いており、
痛がる声を、たまたま通りかかった僧侶が聞いたという話もある。
もっとも、声を聞いたのは在原業平で、場所は東北だったという異説もある)

しかし同じ京都府内だけでも、京丹後市と井手町にそれぞれ小町の墓がある。
京都府の北の端と南の端である。

以上が隨心院に伝わる、小野小町と深草少将の「百夜(ももよ)通い」の伝説だが、
百夜通いの舞台がここではないという説もある。


秋田県湯沢市(旧雄勝町)は、小野小町の生誕地候補として、多分最も有名な地だ。
「小野小町は秋田出身」というイメージが定着しているので、
秋田新幹線は「こまち」だし、秋田のお米は「あきたこまち」である。

古今和歌集の目録で、小野小町は「出羽国郡司女(むすめ)」と紹介されている。
(古今和歌集の成立は、小町の全盛期から50年ほどしか経っていないが、
目録は、同じ平安時代でも末期に作られていて、小町の時代から300年ほど後である)

出羽国の中にも複数の郡があるが、その中で雄勝郡が出身地とされているのは、
現地に伝わっていた小野小町の伝説を、江戸時代の旅行家・菅江真澄が、
きわめて詳細に記録していたことが大きい。

当地では、「百夜通い」の舞台もここだったとされている。
809年(大同4年)に生まれた小野小町は、
822年(弘仁13年)、父・良実が京に戻ることになったため、一緒に京へ上った。
825年(天長2年)、16歳(満年齢)から宮中に仕える。

(※ただし、郡司という役職は現地の有力者がなるもので、
京から派遣されたり京へ戻ったりすることはまずない。
「出羽国郡司女」を「出羽国司女」の誤りと解釈することもできるが、
もし良実が国司だったとしたら、住んでいた場所は今の山形県酒田市だったはず)

雄勝の伝説では、小町が宮仕えを辞めたのは、
まだ仁明天皇が存命中の845年(承和12年)。
隨心院に伝わる伝説より5年早いが、生まれた年も6年早いので、年齢はほぼ同じで36歳。

小町が宮仕えを辞めたのは、故郷が恋しくなったからだというのがこちらでの説。
したがって、小町はそのまま京都を離れ、雄勝の小野の里へ帰郷した。
その小町を、深草少将が追いかけて、何と雄勝までやってきた。

(本人の希望で、郡代として赴任したとされているが、「郡代」は室町時代以降の役職。
「郡司」の誤りかとも思ったが、郡司という役職は現地の有力者がなるもので……)

深草少将は、長鮮寺という寺に滞在し、桐木田という所にある小町の館へ恋文を届けた。
小町からの返事は、
「私の家の近くにある高土手に、芍薬(シャクヤク)を毎夜1株ずつ植えて下さい。
百株になったらあなたの想いを受け入れましょう」

ほかの所の「百夜通い」は、少将の想いを受け入れる気のない小町の無理難題なのだが、
雄勝では、彼女がこのような条件を出した理由がちゃんとある。
実は小町は運悪く、このとき疱瘡(ほうそう)を患っていて、顔にあばたができていた。
だから少将を百日待たせて、その間に磯前神社脇の薬師堂にある水で顔を洗い、
疱瘡を治そうとしていたのだという。

少将は、近所の橋のたもとに住む、梨の木の姥という人から芍薬をもらい、
現在の小町堂のあたりに植えていった。
だが百日目の夜。降り続いていた雨のせいで、途中の川が増水しており、
また橋も、柴を編んで作られた粗末なものだったので、
少将は橋ごと流され、命を落としてしまった。

小町は少将のなきがらを二ツ森に葬り、菩提寺の向野寺(こうやじ)に地蔵菩薩像を納め、
長鮮寺には板碑を建て、99本の芍薬それぞれに歌を捧げて、少将を供養した。
晩年の小町は俗世を避けて、山の中の洞窟(現在、岩屋堂とよばれている)で
ひっそりと暮らし、900年(昌泰3年)に92歳で亡くなったという。
里の人々によって、深草少将が眠る二ツ森に葬られた。

それにしても少将はなぜわざわざ、桐木田からやや距離のある長鮮寺に滞在したのだろう?
京都の場合は、少将の自邸から通っているからまだわかるが、
雄勝の場合は出発地点がここである理由がない。
桐木田の近くに、滞在できるような建物自体がなかったのだろうとは思うが、もしかしたら、
家なり寺なりはあったのだが、交渉に失敗して泊まれなかったのかもしれない。
その方が、生き方が不器用な深草少将らしい。


スイカの名産地として知られる熊本市北区の植木町では、
「百夜通い」は小町が隠居した後ではなく、宮仕えする前の出来事だと伝わる。
小町の祖父とされる小野篁は、838年(承和5年)に隠岐へ流されている(これは史実)。
このとき篁の養子の良実(この時点で出羽国の郡司だったそうだ)も、
連座して熊本に流された。
良実はここで11年過ごし、その間に龍子と小町の姉妹が生まれたという。
小町は、現在の小野泉水公園の水を産湯に使ったとされる。

(篁は2年後に赦免されているので、良実だけ11年も植木に留め置かれたのは不思議だ。
ただ、それを言い出したら篁は802年(延暦21年)生まれなので、
9世紀前半に活躍した小町の祖父ということ自体が年代的におかしい)

小野小町が植木にいたのは3歳までだったとされる。
だが植木にも、実は成長するまでここにいた小町を、
地元の豪族だった深草少将が見初めたという、「百夜通い」伝説があったらしい。
私は事前に調べていて、植木の百夜通いが載っているサイトを見た記憶があるのだが、
後からもう一度確認しようとして、いくら探してもこのサイトは見つからなかった。

京都や雄勝の百夜通いでは、既に36歳になっていた小野小町を、
深草少将がなお愛し続けたという点に、私は個人的に共感していた。
植木町の伝説は二人がまだ若い設定なので、受ける印象がかなり違ってくる。


和歌山市や岩出市のあたりでは、深草少将が百夜通いを達成したのに、
百日目に小野小町が京都から熊野へ逃げたという伝説がある。
追いかけてきた少将が、今の岩出市根来(後世の根来寺・根来衆で知られる)で、
やっと小町を捕らえたと思ったら、身代わりの侍女だったので、
怒った少将は住持池(じゅうじがいけ・現在の岩出根来ICの近く)に身を投げて、
大蛇に姿を変えた。

その後、小野小町は、少将の霊に苦しめられるようになったので、
住持池に近い、現在の和歌山市湯屋谷(JR阪和線が通るが駅はない)に
寺を建てて少将を供養した。小町が亡くなったのもこの地だとされる。


京都府でも、丹後半島の京丹後市には、また別の伝説が残っている。
小野小町が天橋立へ向かう途中、五十日(いかが)という村に滞在した。
村人から、この村には火事や難産が多くて困っていると相談された小町は、
「五十日」を「五十河」と改名するよう提案。
改名以降、村では火事も難産もなくなった。

雪が積もっていたので春まで滞在した後、小町は天橋立に向かった。
だが途中で突然腹痛に襲われ、五十河に引き返すも、そこで亡くなったという。
五十河には小野小町の墓が現存し、現在その周囲は小町公園として整備されている。

なお、小町の没後、小町が五十河にいると聞きつけた、深草少将がやってきた。
しかし小町の死を知ると、少将もショックで倒れ、そのまま死んでしまったそうだ。
だとすると、この伝説での小町は、宮仕えを辞めて間もない三十代くらい。
また、「百夜通い」は起こらなかったことになる。

ちなみにこの話だと、小野小町は天橋立に行けなかったことになるが、
与謝野町の大内峠には、小町が訪れて天橋立を眺めたという伝説がある。
小町がここで用を足した際、逆さに見える天橋立が美しいことに気づき、
これが股のぞきの発祥になったと伝わっているそうだ。
大内峠からの眺めは「一字観」と呼ばれ、現在「大内峠一字観公園」が存在する。

股のぞきは1900年(明治33年)、傘松公園に展望台を設置した
吉田皆三という人が提唱し、それが広まったらしい。
ただし、もともと股のぞきには、まじない的な意味もあったので、
天橋立でも明治以前に全く行なわれていなかったわけではなかったらしい。


小野小町には、水に関する伝説が多い。
神泉苑の雨ごいや、五十河の話もそうだし、
ゆかりの場所に「姿見の井戸」「化粧の井戸」があることが多い。
山形県米沢市では、温泉を発見している(現在の小野川温泉)。

また、京都で小町の旧居があったとされる場所には隨心院があるが、
その前身・曼荼羅寺を建立した仁海僧正も、雨ごいを特技としていたそうだ。

小町の祖父とされる小野篁は、京都の六道珍皇寺の井戸を通って、
この世とあの世を行き来していたという伝説がある。

深草少将は、大雨もしくは大雪で死んだというが、
小野小町が雨ごいのできる人だったと考えると……。

こわい考えになってしまった。


引き続き隨心院。
参道に1ヶ所だけ、
サツキの花がまだ残っていた。
もし当初の予定通り、
5月に来ることができていたら、
参道全体でサツキがきれいに咲いていたはず。

薬医門があり、その向こうに大玄関がある。
現在の拝観入口はここではなく、
左に折れて築地塀沿いに少し進んだ所。

築地塀に白い線が5本入っていることが、
このお寺の格式の高さを表しているらしい。

薬医門と大玄関は、江戸時代初期の寛永年間、
九条家にゆかりのある、天真院尼という人が寄進したそうだ。
(豊臣秀勝(秀次の弟)と崇源院(浅井三姉妹の江)の娘で、
九条幸家(忠栄)に嫁いだ、豊臣完子(さだこ)か)

左に曲がって塀沿いに進む。
左手に小野梅園がある。
3月の観梅会の時期だけ入園できる。

3月の最終日曜日には、境内で「はねず踊り」が行なわれる。
はねずとは薄紅色のことで、この梅園に咲く遅咲きの梅が、はねず色をしているらしい。
はねず踊りは途絶えていた時期があったが、1973年(昭和48年)から復活した。
(残念ながら今年はコロナ禍のため中止。奉納舞が関係者のみで行なわれた。
これで3年連続での中止となる)

はねず踊りは、百夜通いの伝説がモチーフになっている。
しかし元の話とは異なり、深草少将は99日目に死ぬことはなく、
代役の者を小町の家に向かわせ、それが小町にばれて振られてしまう。

長屋門の脇が拝観入口。

庫裡(くり)から屋内へ入る(拝観料¥500)。
庫裡は二条家から
1753年(宝暦3年)に移築された建物で、
もとは二条家の政所だったそうだ。

入口の前に小町の歌碑が建つ。
「花の色は 移りにけりな いたづらに
わが身世にふる ながめせしまに」

室内に入ると、まず小野小町を描いた大きな絵が目立つ。
ジミー西村さんという方の作品。
暗い室内でカメラのシャッターを開放し、ペンライトを使って絵を描く、
ライトペインティングという技法を使うアーティストだそうだ。

「隨心」の額の下を通って、先へ進む。
ふすまの鶴や松の画が良い。
廊下を進んだ先が大玄関。さっきの薬医門の奥にあたる。
杉戸やついたての画が目を引く。ついたてに描かれているのは、はねず踊りか。

隨心院

表書院へ。ここも天真院尼が寄進した建物。

庭の向こうに本堂が見える。
1599年(慶長4年)の建物。

表書院でウエディングフォトの撮影が行なわれており、少々待つ。
だが撮影が一向に終わる気配がなかったので、やむなく中に入り、
邪魔にならないよう気を遣いながら、駆け足気味に仏様を参拝する。
1月頃から左膝の内側を痛めていて、正座するのにちょっと時間がかかった。

御簾(みす)の中に如意輪観音像が安置されている。
ほかにもう1体、立派な仏像が。金剛薩埵(こんごうさった)坐像。
ふすま絵の松(「花鳥山水の図」)や、
「四愛の図」(4人の賢者と、それぞれが好んだ植物を組み合わせた画)も凝っている。
京狩野派の絵で、狩野永納の時代の作品。

以前、BSイレブンの『京都浪漫 悠久の物語』という番組(KBS京都テレビと共同制作)で、
この隨心院が取り上げられている回を見た。
そのときは、小野小町の伝説の地というよりも、
ふすま絵がかなり充実している寺院という印象の方が強かった。

(※後から知ったが、私が訪れたときには、本堂の改修工事に備えて、
御本尊の如意輪観世音菩薩坐像と、快慶作の金剛薩埵坐像(ともに重要文化財)を、
既に本堂から表書院に移していた。
つまり私がこのとき拝んだ2体の仏像が、普段は本堂に安置されている二仏だったようだ。
駆け足気味で参拝したのは、もったいなかった。
なお、このあと本堂の改修工事が始まり、9月5日から立入禁止となっている)

庭は苔を中心とした造り。

次の部屋は「能の間」。九条家が江戸時代中期の宝暦年間に寄進した建物。
ここにかの有名な、あまりにも華やかで、きらびやかなふすま絵、
「極彩色梅匂(いろ)小町絵図」がある。
しかし、ちょうどさっきのウエディングフォト撮影隊が来たので、
能の間の鑑賞は撮影が終わるまで後回しにして、先へ進む。

奥書院へ向かう廊下の途中に分かれ道がある。
うっかりしてたら見過ごしそうな道だが、立て札があって、
「卒塔婆小町坐像」と「小野小町文張地蔵尊像」はそっちにあるという。

卒塔婆小町坐像は、小野小町の晩年の姿を彫ったとされる木像。
小野小町文張地蔵尊立像は、小野小町が、
自らに送られた恋文を下張りして作ったとされるお地蔵様。
どちらも、テレビやネットやガイドブックで隨心院が紹介される際には、
必ずといっていいほど取り上げられる像なのだが……。

8畳くらいの、ごく小さな部屋の端っこに、ほかの像とまとめて並べられていた。
しかもこの部屋は、歓喜天の浴油を行なう部屋で、中に入ることはできない。
その上、開いている戸から、頭を室内に突っ込まないと見えない位置にある。

隨心院の観光面での目玉といっていい像が、なぜこんな扱いなのか謎。
歓喜天の儀式の部屋にあることも不可解。
歓喜天といえば、現世利益、特に恋愛と夫婦和合と子宝の仏様なので、
小野小町との相性は良くなさそうな気がする。

(※実は、像が並んでいる壁の対面に、能の間の小町絵図のふすまがあって、
ふすまを開けると、文張地蔵を中心に、これらの像が整然と並ぶ形になっているらしい。
どうやらこの並びは、ふすまに小町絵図が描かれる前から変わっていないようで、
もしかしたら昔は、ふすまが開いた状態で、正面からこれらの像を拝めたのかもしれない)

隨心院

奥書院側の庭に建つ小町堂は、納骨堂なのだが、
扉が開いており、内壁に小野小町の美しい画像が描かれているのが見えた。

奥書院へ。江戸時代初期の建物で、ここの各部屋も狩野派のふすま絵が目を引く。
舞楽の図、節会饗宴の図といった儀式を描いた絵や、中国の賢者が並ぶ賢聖の障子、
墨で勢い良く描かれた虎の図。

最後の部屋に、
「小野小町ゆかりの榧(かや)の実」が
展示されていた。
深草少将の百夜通いの際、小町が榧の実に
糸を通して日数を数えたと伝わっている。
で、ここにある榧の実に、
糸を通した跡が残っているそうだ。

少将の死後、小町は供養のため、榧の実を小野の郷にまいたと伝わる。
そのため実物は現存しないはずだが、育った榧の木に生(な)った実に、
今でも糸の跡が残っているということか。
(今ある木は、当時から数えて5代目にあたるらしいが)

さっき通り過ぎた「能の間」へ戻り、「極彩色梅匂小町絵図」を鑑賞しよう。

ふすま絵の色に合わせて、
能の間には色とりどりの花が飾られ、
部屋全体が華やかな空間になっていた。
(JR東海の「花咲く京都」キャンペーンで、
6月19日まで行なわれていた)

障子まで花のようなピンク色。

あまりにも華やかなこのふすま絵
「極彩色梅匂(いろ)小町絵図」は、
だるま商店さんというアーティストユニットが、
2009年に制作した。
京都屈指の映えスポットとして有名らしい。

4枚のふすまは左から、
生誕の図、饗宴の図、伝承の図、夢幻の図と
名づけられている。

それぞれ、小野小町の生まれた秋田の風景、
京都御所での宮仕え、
山科での隠居生活、
諸国放浪の旅に出た様子を表しているそうだ。

3枚目の「伝承の図」にはもちろん、
深草少将の百夜通いも描かれていた。
2枚目の御所の近くから、山道を越えて、
3枚目の隨心院まで歩く深草少将。
御所を去った小野小町を追い掛けるという、
時間経過も含めて描いているように感じる。
空間と時間経過を1枚の絵で表現する構成は、
昔の合戦図屏風をほうふつとさせる。

伝承の図に描かれているのは、小町がいた頃にはなかった現在の隨心院と、はねず踊り。
でも、だからこそ小野での隠居を描いたことがわかりやすい。
(だいいち、実際に小町がどんな建物に住んでいたかはもちろん不明だし)
それにこの隨心院の青い屋根が、はねず色(薄紅色)メインで彩られた絵全体を、
引き締めているような感じがする。

全くの余談だけど、私は「だるま商店」さんというユニット名を、
よく「だるま食堂」と言い間違える。気をつけよう。
だるま食堂さんはベテランの女性お笑いトリオだ。

最後に本堂へ。遠くからだが、並んでいる数々の貴重な仏像を拝む。
応仁の乱などの戦禍をくぐり抜けた、平安時代や鎌倉時代の仏像だ。
(重要文化財の阿弥陀如来坐像は、修復中で不在)

御本尊の如意輪観音様は厨子の中。
(……と思っていたが、前述した通り、御本尊はここにはなく、
さっき表書院で御簾越しに拝んだのがその御本尊だった)

さらに遠くだが、隣の部屋にも仏様がまつられている。
ここを仕切るふすま絵も良い。

本堂の向こうの庭に、
小ぶりながらも池があって、いい雰囲気。

庫裡に戻って、お守りをお受けする。
えんむすび守もあったが、結ばれなかった人の邸宅跡ということが気になったので、
えんむすび守ではなく、水引で作られた結守(ゆいまもり)にした。
あと、隨心院門跡の亀谷英央師が小町について書かれた、フォトブック『小町』も購入。

外に出たところで、さっきのウエディングフォトの一行と鉢合わせした。
実は表書院での撮影に遭遇するよりかなり前、
私が小野小町化粧の井戸のあたりにいたときに、薬医門の前にいる一行を見かけていた。

(以前載せた写真にも写っていた)

あれから今の時間まで撮影していたのか。新郎新婦さんも撮影隊の皆さんもたいへんだ。

隨心院

隨心院にはもう1ヶ所、
忘れちゃいけないスポットがある。
薬医門の右側から、境内の裏手に回り込む。

俳句の刻まれた黒い石がひたすら並ぶ、細い道を進む。
一般の参拝者が歩いていいものかどうか、ためらうくらい細い。
やがて丁字路に突き当たった。

右に行くと清瀧権現堂。
清瀧権現(せいりゅうごんげん)といえば、
さっき訪れた醍醐寺の総鎮守。

丁字路に戻り、そのまままっすぐ進む。
分かれ道を右に入って、
本堂の裏手の森のさらに奥へ。

そこに「小町文塚」が、ひっそりとたたずんでいた。
小野小町が、自分宛に寄せられた千通もの恋文を
埋めた場所だと伝えられている。
先ほど、恋文を張って作った
文張地蔵尊像があったが、
千通もあったら、全部をお地蔵さんにして
処理するのは大変だろう。
そりゃあ土に埋めて供養するしかない。

叶わなかった千の想いが、この土の下に埋まっている。
いわばここは、恋人の聖地ならぬ“失恋の聖地”。
ここを訪れてお参りすることで、失恋の先達の皆さんから、
「我々の分まで」と、自分の恋を応援してもらえるか?
それとも、引きずり込まれて彼らの仲間にさせられるか?
いちかばちかの覚悟で参拝した。

入ったときと別の門から、隨心院を出た。
こちらが総門で、庫裡と同じく二条家から、
1753年(宝暦3年)に移築された。

隨心院は、いろいろ見どころの多いお寺だった。
応仁の乱の戦禍を免れた貴重な仏像。貴族ゆかりの建物群。
古い狩野派の襖絵を大事に保存し、一方で現代アートのふすま絵を取り入れる。
そして小野小町にまつわる伝承。
それだけに、小町文張地蔵と卒塔婆小町坐像が、見づらい所にあったのがちょっと残念。

隨心院

地下鉄東西線の小野駅へ向かおう。
深草少将の百夜通いのルートはこのあたりだろうか?
西に向かって歩いているから、方角はこっち側のはず。

やはり百夜通いの道には障害がつきものなのか?
信号待ちに引っ掛かり、
徒歩5分のはずのルートに8分かかって、
午後4時54分、小野駅到着。

この近くにはもう1ヶ所、勧修寺(かじゅうじ)という大きなお寺があるのだが、
今から行くのは無理。ということで今日はここまで。
明日はこの小野駅から再開しよう。

地下鉄東西線、午後5時6分発の太秦天神川行きに乗る。
5時12分、山科駅着。

駅の近くの商業施設、ラクト山科で休憩しよう。
疲れすぎたのか、歩いてるとき一瞬ふらつきかけた。
4階にホリーズカフェがあった。コーヒーゼリーを食べた。

JR山科駅から、午後6時1分発の姫路行きに乗る。
6時6分、京都駅着。
6時20分、ホテルに戻ってきた。ゆっくり休憩。

8時過ぎに晩ごはんのため外出。今日は地下街ポルタに来てみた。
もうどの店もラストオーダーが近いかなと思ってたら、
むしろ、どの店もめっちゃ混んでて、待たないと入れない。

ほかのレストラン街へ行くことも考えたが、そこも空いてるとは限らないし、
だいいち、もう歩く体力がない。
結局、ローソンで冷やし中華を買ってきて、ホテルで食べた。
マヨネーズがついてたので、旅先での食事っぽい気分は味わえた。
デザートは京都らしく、宇治抹茶入り「どらもっち」。

現在のゲーム路銀
¥810


今回のルート

京都観光Navi(京都市観光協会)  京都府観光連盟
JRおでかけネット(JR西日本)  京都市交通局


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