ゲイムマンのダイスステーション

日本縦断ゲーセン紀行

241.町ゲーセンで演ろうぜ
~京都編(7)~


スタート時点での「ゲーム路銀」は、「ゲーセン」にちなんで¥5,000(G千)。
ゲーセンでゲームをプレイして、1面クリアーするごとに、
「ゲーム路銀」は¥100ずつ増える。
(ただし、1プレイ¥50円のゲームなら¥50ずつ、1プレイ¥200なら¥200ずつ。
 ゲームをプレイするためのお金も、「ゲーム路銀」からねん出する)
この「ゲーム路銀」だけを交通費にして、日本縦断を目指すのだ!
(前回までのゲーム路銀 ¥810


京都

2022年6月13日。昨日と同じ8時半起床。
今日から泊まるホテル選びに時間がかかって、またも就寝が3時半になったので、
今朝も5時間しか寝ていない。ベッドが良いので休まることは休まる。

昨日コンビニで買っていた、からしマヨソーセージパンを食べる。
出発前に眠くなってきた。

ホテルをチェックアウト。荷物を預かってもらう。
思いのほか疲れが溜まっているようなので、今日の行程はなるべく軽めにしたい。

琵琶湖線10時22分発の野洲行きに乗る。
ロープが上がるタイプのホーム柵を初めて見た。
山科駅から10時35分発の地下鉄東西線六地蔵行きに乗り換え。
10時41分、小野駅着。今日はここからスタート。

小野

昨日はこの駅でエレベーターを見かけた記憶があるのだが、なかったので階段を上がる。

昨日来たのと違う出口から出ていた。

山科川を渡って、昨日行けなかった勧修寺(かじゅうじ)へ。
駅から徒歩5分のはずだけど、道が合ってるのか不安になって調べたり、
車通りが多いのに信号機がない横断歩道で待ってたりしたら、8分かかった。

白い築地塀に沿って歩き、山門に入る。

山門と似た形の中門がある。
ここから先は有料で、拝観料¥400。
門に「京都市指定 名勝庭園」と
書かれているように、
勧修寺は、氷室池を中心とした庭園が
いちばんの見どころらしい。

入口に生えているのはモミジか。秋には真っ赤に染まるだろう。

宸殿の前に、今赤く染まっている木もあった。

芝生越しに見る宸殿の建物が、
重厚に感じられる。
正面の向拝の大きなひさしと、
壁いっぱいの正方形の格子模様。
(障子だと思ったが、
近づいてみたら障子じゃなかった)

それに加えて、この建物の由来を知っているから、より重厚に思える。
もとは1676年(延宝4年)に建てられた、明正天皇(上皇)の御所御対面所で、
明正天皇崩御翌年の1697年(元禄10年)に下賜された。

地図がないからどこを通っていいか迷ったが、
宸殿の裏に回ると、
こけら葺きの建物があった。

ここの前庭が特徴ある風景だったので、建物の方はあまりよく見ていなかったが、
実はこの建物こそ、勧修寺の建造物の中で唯一、重要文化財に指定されている書院だった。

1673年(延宝元年)より建てられた、後西天皇(上皇・後西院)の御所が、
後西天皇崩御翌年の1686年(貞享3年)に下賜されたもの、という説と、
明正天皇の御常御殿(居間)を下賜されたものという説がある。
境内に説明板が2枚あり、どちらも京都市が立てたものだが、
その2枚で書院に関する説明が食い違っている。

外観は何となく地味に見えたが、
以前、BS11/KBS京都の番組『京都浪漫 悠久の物語』で見た内部の様子は、
大きくて豪華な近江八景図や龍田川紅葉図(土佐光起・光成筆)が描かれているなど、
重要文化財にふさわしい、絢爛豪華な空間だった。

書院の前庭には、独特な形の石灯篭
(勧修寺型灯篭とよばれる)があり、

それを覆うように広がる、
これまた独特なハイビャクシンの木。
樹齢750年の大木なのだが、
「這柏槇」の名の通り、上にはほぼ伸びず、
ひたすら平面に広がっている。

勧修寺型灯籠は、あの「水戸黄門」こと
徳川光圀が寄進したと伝わる。

本堂へ向かう道沿いに、
青くきれいな花が咲いていた。
ガクアジサイか。

本堂で参拝。
ガラス越しでよく見えないが、
御本尊は千手観世音菩薩立像。

本堂の建物は、1662年(寛文2年)造営の
仮皇居内侍所仮殿(この前年に内裏が
火災で焼失していた)の旧材を使って、
1672年(寛文12年)、
灌頂道場として建てられたもの。

入口の音声案内以外に説明がほぼない上、勧修寺には公式サイトもないので、
行きそびれている見どころや、解除してない実績がないか不安になる。
こういう所を気ままに散策できるような、ゆとりのある人間に成れてない。

やや気づきにくい場所に、
弘法大師の像が建っている。

その足元に、四国八十八ヶ所の石が、
番号入りで並べられていた。
像の周りを1周すると、全ての石が踏める。

芝生の広場に出た。
向こうに池が見える。
この勧修寺庭園の白眉といえる、氷室池だ。

平安時代には、毎年正月2日、この池に張る氷が宮中に献上された。
その厚さで、その年の農作物の出来を占ったそうだ。
昔はもっと広かったが、豊臣秀吉が伏見城を造る際、
道路を通すために南側の一部が埋め立てられたらしい。

池のほとりに観音堂が建つ。
昭和初期(※)に建てられた
比較的新しい建物だが、姿が良い。
白い観音様の御姿もよく拝める。
(※ここの創建年も案内板によって、
1931年(昭和6年)と1935年(昭和10年)の
2通りある)

池と芝生と木々の中で、
観音堂が良いアクセントになっている。

勧修寺の創建は900年(昌泰3年)と伝わる。
醍醐天皇が、生母・藤原胤子を弔うために、
宮道弥益(みやじのいやます)の邸宅跡を寺に改めたと伝わる。
門跡寺院として栄えたが、1470年(文明2年)、応仁の乱で焼失。
江戸時代に、徳川家と皇室の援助により再興された。

今昔物語集によると、ここが宮道弥益邸だった時代、
鷹狩で近くを訪れていた藤原高藤が、急な雨に遭い、
この屋敷で雨宿りをし、日が暮れたのでそのまま1泊した。
ここで高藤は、弥益の娘の列子(たまこ)と恋仲になる。

一夜明け、高藤は列子に、もし親が縁談を持ち込んできても断るようにと言い残して、
屋敷を後にした。
高藤は都に戻ったら改めて娘を迎えに行くつもりだったが、
鷹狩に行ったまま帰ってこない息子を心配していた父・良門が、高藤の鷹狩を禁じた。
その上、同行していた馬飼いの男が田舎へ帰ってしまい、
屋敷の場所がわからなくなったので、高藤は娘を迎えに行くことができず、
そのまま6年ほど経過してしまった。

あるとき、馬飼いの男が都に戻ってきたと知った高藤は、
彼の案内で弥益の屋敷を訪れた。
列子はさらに美しくなっていて高藤は喜んだが、そのそばに5、6歳の女の子がいる。
弥益に尋ねると、列子はあれ以来男に近づいたことはなく、
懐妊した時期からみても、高藤の子に間違いないという。
一層喜んだ高藤は、いったん都に帰ると車を用意して、翌日また屋敷を訪れ、
ようやく列子(とその幼い娘)を都に迎えることができた。

この話にはまだ続きがある。幼い娘は成長すると、光孝天皇の皇子で臣籍降下していた、
源定省(みなもとのさだみ)と結婚した。

光孝天皇は関白の藤原基経に忖度し、基経の甥で陽成上皇の弟にあたる
貞保親王に皇位を継がせるため、自身の皇子を全員臣籍降下させていた。
しかし基経は、妹で貞保親王の母・高子と非常に仲が悪かったので、
光孝天皇が病に倒れると、定省を皇族に復帰させて皇太子とする。
間もなく光孝天皇は崩御し、定省は天皇に即位した(宇多天皇)。
さらに、宇多天皇が源定省だった頃に列子の娘との間に生まれた男子が、皇太子となった。

このことにより、高藤も、列子の父・宮道弥益も大いに出世する。
897年(寛平9年)、宇多天皇は皇太子(敦仁親王)に譲位。
この敦仁親王こそが、醍醐天皇その人であり、
列子の娘こそ、醍醐天皇が勧修寺を創建するきっかけとなった藤原胤子である。

残念ながら醍醐天皇が即位した時点で、胤子は既に死去していたが、
その父親の高藤は、天皇の祖父となったことでさらに出世。
最後は内大臣にまで昇進した(没後太政大臣を追贈)。

また列子は胤子の後に男子を2人産んだが(定国、定方)、
定国は大納言、定方は右大臣にまで出世した(小倉百人一首の三条右大臣)。
ちなみにあの紫式部は、定方の曾孫である。

『源氏物語』で、光源氏が一時失脚して明石に住んでいたときに出会い、
源氏が復権したとき都に連れていった「明石の君」は、
列子をモデルにした登場人物といわれている。

このように、あの鷹狩の一夜をきっかけに、
高藤と列子の一族はことごとく出世を果たした。
「玉の輿に乗る」という言葉は、列子(たまこ)の名前に由来するという説もある。

※「玉の輿に乗る」の語源は、
江戸時代の徳川家光の側室・桂昌院(お玉)の名前からという説が有名だが、
これも俗説のようで、「玉の輿」は人名に由来したものではなく、
単に「立派な輿」という意味のようだ。

今の季節、中島の周りには
スイレンの葉が広がっている。

白い花が水面のそこかしこに咲く。

一部に赤い花も。

池のほとりに、
葉っぱが半分白い草が生えていた。
これが半夏生(はんげしょう)か。

鳥が数羽たたずんでいる。
アオサギか?

周りから、ガーガー、ピーピー、チッチッと、鳥の声。
ガーガーは蛙の声かと思ったけど、頭上から聞こえたから多分鳥。

池の左側(東側)にさらに歩くと、
花菖蒲?が並んで咲いている。

氷室池をしばし眺める。
建物内の拝観ができないせいかもしれないが、
勧修寺は飾り気のない静かなお寺で、
その環境がかえって居心地良かった。

小野

小野駅に戻る。昨日も来た1番出口。やっぱりこっちにはエレベーターがあった。

地下鉄東西線12時21分発の太秦天神川行きに乗る。
次の駅は、以前降りた椥辻(なぎつじ)。
イオンタウン山科椥辻があるが、ゲームコーナーはなかった。

12時25分、次の東野駅で降りた。
ゲーム路銀 ¥810-¥220=¥590
この駅のそばに、大きな西友があるらしい。
ゲームコーナーはないと思うが、
一応確認してみよう。

~椥辻(なぎつじ)~
東野(ひがしの)

2番出口。エレベーターがあって良かった。

3、4分で西友山科店に到着。確かに大きい。

入口に掲げられた専門店リストに、
「4F プレイランド わくわくランド」という文字が!

100円ショップ・キャンドゥの奥。
「あったよー」と、
玉袋筋太郎さん張りに声が出た。

わくわくランド。
思ってたより広い。

プライズ機はもちろん多い。メダルゲームやのりものも。
カードものも。(アイカツプラネットや、仮面ライダーバトル ガンバライジング、
ポケモンメザスタ、スーパードラゴンボールヒーローズ)
さらにプリントシール機が2台。

ここまでは、一般的な大型スーパーのゲームコーナーと変わりないが、
所々に、珍しい筐体が唐突に現れて、テンションが上がる。
例えば、のりものの列にさりげなく紛れ込んでいる『レースオン』(Race On!)。
(ナムコのレースゲーム。プレイヤーの顔をカメラで写し、画面内の車の上に表示できる)

昔のエレメカのリメイクで、
道路から逸れないように車を動かす『ドラえもんの運転だいスキ』。
最初期のクレーンゲーム、『カニさんのクレーン』と『ぱおぱおくれーん』。
『ストライカー』『ラインズボール』『グラスダービー』というスマートボールまで。

今回の記事のタイトル「町ゲーセンで演ろうぜ」は、
BS-TBSの『町中華で飲ろうぜ』のもじりだが、
やってることが、CSフジテレビONEの『ゲームセンターCX』内のミニコーナー、
「たまに行くならこんなゲームセンター」(たまゲー)みたいになってきた。

というか、「ゲイムマンの日本縦断ゲーセン紀行」自体が、
各地のゲーセンを回る企画なので、もともと「たまゲー」に近いコンセプトだった。
「たまゲー」も、箱根の温泉旅館のゲームコーナーを巡る
「温泉ゲーム紀行」から発展した企画だし。

(一応書いておくけど、ゲーセン紀行のスタートは、
『ゲームセンターCX』の放送開始より2年早い)

(※ちなみに最近、『ゲームセンターCX』の「たまゲー」を収録したDVD、
『ゲームセンターCX たまゲー スペシャル』が発売された。
過去に番組が取材し、現在は閉店しているゲーセンの映像を集めた
「閉店たまゲー傑作選」や、
このDVDのため新規に撮影された、
「有野課長の休日~レトロゲーム紀行 in 群馬&長野~」が収録されている)

話が横道に逸れた。西友山科店「わくわくランド」の話に戻そう。
『太鼓の達人14』があったので、プレイしてみる。
2曲¥100なので効率は悪いが、最新機にはない、懐かしい曲が入っている。

まずは、ふつうモードで『メルト』と『ハレ晴レユカイ』をプレイしてクリア。

もう1回プレイ。『羞恥心』があった。『クイズ!ヘキサゴンII』が懐かしい。
とはいえ当時あまり見てなかったんだけど。
私は水野裕子さんのファンなのに、水野さんがレギュラー出演していた時期に、
この番組をほとんど見ていなかった。今考えるともったいない。

2曲目は、同じくフジテレビの番組の企画から生まれた、
『ニホンノミカタ -ネバダカラキマシタ- 』を選択。
古めのゲームコーナーでありがちな、
“近くにある別のゲーム機の音で、曲が聴き取りづらくなる現象”に見舞われるも、
ふつうモードで無事クリア。
ゲーム路銀 ¥590-¥200+¥400=¥790

矢島美容室 / ニホンノミカタ-ネバダカラキマシタ-(YouTube)

あらためて聴くと、いい曲だなこれ。

西友山科店1階のマクドナルドで、マックシェイク・バニラSを飲んで小休止。
ここからさらに北へ歩いていこう。午後1時47分、西友を後にする。

「外環渋谷」という交差点があった。
ちょっと東京っぽい名前。
ただし「ガイカンシブヤ」ではなくて、
「ソトカンシブタニ」と読むようだ。

山科

徒歩12分くらいで、
ラクト山科ショッピングセンターに到着。
思っていたより、かなり早かった。

1階のエスカレーター周りで、北海道の物産展をやっている。

エスカレーターのある吹き抜けの壁面に、
パイプオルガンが設置されていた。

4階のレストラン街で昼ごはんにしよう。
ポムの樹でケチャップオムライス。安定のうまさ。

ポムの樹の向かいが、昨日コーヒーゼリーを食べたホリーズカフェ。
で、昨日も来たから気づいているけど、ラクト山科にゲームコーナーはおそらくない。

ラクト山科ショッピングセンター

山科駅へ向かう。地下からも行けるけど、地上の道を通ったことがないので歩いてみる。
曇ってきているせいか、意外と暑くない。
小さな現代彫刻が点在する通りを歩き、京阪の踏切を渡る。

山科駅に到着した。
月曜午後の穏やかさ。

午後3時2分発の普通・網干(あぼし)行きに乗ろう。225系8両編成。
ちなみに1本前の午後3時発は、緑色の113系だった。
反対側のホームには、同じ色の117系が来てた。

3時7分、京都駅着。
ゲーム路銀 ¥790-¥190=¥600

京都

烏丸口(北口)のホテルに預けていた荷物を受け取って、八条口(南口)へ移動。
(旅行が何日間できるかわからなかったので、出発前に予約したのは3泊だけだった。
今日この先、駅の南側を歩く予定なので、次に泊まるホテルは南口にしたのだ)

南北自由通路、JR改札前の、以前は時計があったところに、駅ピアノがあった。
おじさんが、中島みゆきさんの『糸』を弾いていた。
NHK BSのカメラが入ってるわけではなさそう。

京都駅八条口。ここからホテルへ。

まだ4時前だったけど、チェックインできて良かった。
3時48分、部屋に入って、今日のルートのおさらいなどしつつ休む。
5時半頃から1時間寝る。

晩ごはんを食べに出かけるが、晩ごはんの前に1ヶ所寄りたい場所がある。
ホテルからまっすぐ南へ歩いて、東寺道へ。

「VIDEO GAMES K・T・T」という
看板が見えた。

「ゲーセン紀行」といっても、最近は
ショッピングセンターや大型スーパーの
ゲームコーナーばかりを回っていた。
こういう昔ながらの、
町のゲーセンは久しぶりだ。

鉄拳7、三国志大戦、ワンダーランドウォーズ、Fate/Grand Order、
ボンバーガール、セガNET麻雀 MJなどあるが、
店の面積の半分近くを占めていたのが、
『機動戦士ガンダム エクストリームバーサス2 クロスブースト』。
しかもその全ての台が埋まっていた。
お客さん同士が和やかに会話している雰囲気。
常連さんに支えられている、まさに“町ゲーセン”という感じだった。

そういうお店の売り上げに、わずかでも貢献したかったけど、
私がプレイできるゲームが、あいにく1つもなかった。残念。

東寺道を西へ歩いて、
以前にも来たイオンモールKYOTOへ。

4階のナムコ。
去年12月に来たときは
鬼滅の刃キャンペーン中だったが、
今はウマ娘らしい。
(期間は7月10日までだったが、
10月7日から11月20日まで、
アンコールキャンペーンが開催されている)

ウマ娘のトウカイテイオーを見て、
おととい見た藤森神社の絵馬や、刀剣乱舞のグッズを思い出した。
そのうち藤森神社の宝物殿に、刀剣乱舞の鶴丸国永とともに、
ウマ娘のグッズが並ぶかもしれない、と思った。

さっき西友で古い『太鼓の達人』をプレイしたので、
今度は最新版の『太鼓の達人』をやろうとしたが、
2ヶ所にある筐体のうち、一方はうまい人がプレイ中。
もう一方は小さなお子さんがプレイ中で、それをご家族があたたかく見守っている状況。
結局今回は、プレイせずにナムコを後にした。

晩ごはん。中華料理店で酢豚を食べた。満足。
(イオンモールの中だから、「町中華」という感じではないけど)

イオンモールKYOTO

コンビニで、アイスと野菜ジュースと、明日の朝用のパンを買って、ホテルへ戻った。

現在のゲーム路銀
¥600


今回のルート

京都観光Navi(京都市観光協会)  京都府観光連盟
JRおでかけネット(JR西日本)  京都市交通局


次回、「日本縦断ゲーセン紀行 242.京都編(8)」は、
鉄道三昧の一日を過ごす。
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