ゲイムマンのダイスステーション

日本縦断ゲーセン紀行

48.白のはかなさ、白のせつなさ
〜福島編(4)〜


スタート時点での「ゲーム路銀」は、「ゲーセン」にちなんで¥5,000(G千)。
ゲーセンでゲームをプレーして、1面クリアーするごとに、
「ゲーム路銀」は¥100ずつ増える。
(ただし、1プレー¥50円のゲームなら¥50ずつ、1プレー¥200なら¥200ずつ。
 ゲームをプレーするためのお金も、「ゲーム路銀」からねん出する)
この「ゲーム路銀」だけを交通費にして、日本縦断を目指すのだ!
(前回までのゲーム路銀 ¥5,450



2005年12月1日。体調:やや疲れ気味。眠い。肩痛い。
もっとも、今までにもこんな調子で東京をたって、
旅の間に回復したことが多々あるので、気にしないことにする。

午後5時36分東京発の、MAXやまびこに乗った。
1階の自由席。

郡山で降りて、磐越西線に乗り換えだが、郡山で40分近く待つはめに。
寒い中で待つのもつらいなあと思いつつホームに行ってみると、

もう455系電車が止まっていて、
中に入れる状態になっていた。
暖かい。

郡山駅で買った「小原庄助べんとう」を食べる。しめじご飯の幕の内弁当。
食べ終わった頃、ちょうど発車となった。
発車直後、すぐ右の線路を、寝台特急北斗星が走っていて、驚く。
側面のエンブレムや、食堂車グランシャリオの車内まではっきり見えた。
しかし間もなく北斗星とは離れ、磐越西線を進んでいく。
上りのダイヤが乱れた影響で、2分遅れの8時43分、会津若松駅に到着。


会津若松

12月2日。案の定、体調は万全。
外は雨だが、家々の屋根には、雪がうっすら積もっている。

今日は会津若松の観光地を巡る。
駅前で、観光バス「ハイカラさん号」に乗ろう。

9時発だが、10分ほど前に来たので、
暖かい車内で、発車まで待つことができた。
総ロングシートの、小ぢんまりしたバス。
平日の朝だからか、客は私1人だった。

七日町駅に停車。
駅は「駅Cafe」になっている。
会津24市町村のアンテナショップも兼ねている。
ここで1人お客さんが乗ってきた。
駅Cafeのホームページはこちら。

細い道を縫うように走る。こういうルートを走るには、
このバスの大きさがちょうどいいのだろう。
もちろんさまざまな観光案内も流れる。
9時18分、鶴ヶ城北口着(ゲーム路銀 ¥5,450-¥200=¥5,250)。


鶴ヶ城

朝の静かなお堀の周りを歩く。
時折聞こえる鴨の声。


立派な石垣の間を抜けると、
堂々たる五層の天守閣が姿を現した。
1965年(昭和40年)復元されたもの。
内部は資料館となっている(¥500)。

ごく最近リニューアルされたそうで、展示は明るくて見やすい。
まず第一層では、歴代藩主の変遷を紹介。
戦国大名の葦名氏に始まり、その葦名氏を伊達政宗が破る。
豊臣秀吉の意向で蒲生氏郷が入城。
氏郷がこの土地を「黒川」から「若松」に改名し、七層の天守閣を築いた。

上杉景勝が入封するも、関ヶ原の戦いに敗れて米沢へ転封。
氏郷の子・秀行を経て、加藤嘉明が城主となる。
その子・加藤明成の代に、地震で崩れていた天守閣を再建。
現在復元されている、五層の天守閣が完成した。
しかしこの大工事や、家臣の出奔などで幕府に目をつけられ、
明成は領地を召し上げられてしまう。

その後に入ったのが、徳川秀忠の子・保科正之である。
正之本人は、徳川家綱の守り役として江戸に在勤し、ほとんど会津には帰らなかったが、
家訓十五ヶ条を作って、幕府への忠誠を家臣や子孫に指示した。
その子孫が、戊辰戦争時の藩主、松平容保(かたもり)である。

こうして見ていくと、歴史のさまざまな転換点に、
会津が深くかかわっていたことがわかる。

階段を下りて、石垣の内側にある塩蔵へ。
野面積み(のづらづみ)された石垣は、昔のまま残されたもの。

第二層。日新館の学問、伝統的なおもちゃ(凧や赤べこ、起き上がりこぼしなど)、
会津の伝統産業(絵ろうそく、漆器、酒、桐、焼き物)、お城での生活についての展示。

第三層は、戊辰戦争の解説。松平容保は、朝廷と幕府の融和を狙っていたが、
将軍徳川家茂と、孝明天皇が相次いで亡くなり、後ろ盾を失った。
鳥羽伏見の戦いに敗れると、新政府から会津追討令が出る。

容保は新政府へ恭順する意思を示すが、
かつて容保が京都守護職として、尊王派を追放し、
蛤御門の変で長州藩を撃退していたことなどから、新政府はこれを拒否して白河城に出兵。
東北・北陸の各藩は、奥羽越列藩同盟を結成して対抗するが、白河、二本松、長岡と陥落。

母成峠(ぼなりとうげ)から攻め入る政府軍に、会津軍が応戦するも敗れ、
かの白虎隊の悲劇が起きる。
鶴ヶ城での籠城戦を前に、戦いの足手まといにならぬよう、
老人、女性、子供が自害するといった悲劇も起きている。
城には連日砲弾が撃ち込まれ、食糧もなくなり、1ヶ月後、遂に会津藩は降伏する。

会津松平家は後に、下北半島で斗南藩として再興。藩士たちは極寒の地の開拓に挑んだ。
容保は謹慎を解かれ、日光東照宮の宮司として晩年を過ごしたそうだ。

第四層を経て、第五層の展望台へ。
窓ガラスがなくてかなり寒いが、
会津若松の市街地が一望できる。
飯盛山の背後に磐梯山があるらしいが、
今日も曇っていたので、やっぱり見えなかった。

東山温泉の方向には、きれいに色づいた山々が。

武器庫となっていた南走長屋(写真)と、
その先(写真を撮影した地点の後ろ側)にある
干飯櫓(ほしいやぐら)が再現され、内部を見ることができた。
5年前に復元されたので新しく見えるが、
実は当時の作り方にのっとっていて、
壁も土やしっくいで固めているそうだ。

月見櫓の下にあった、荒城の月碑。
この詞のモチーフは鶴ヶ城と青葉城だと、
土井晩翠が語ったそうで、
碑が完成したときの式典には、晩翠本人も訪れている。

茶室麟閣(りんかく)。
千利休が切腹したあと、蒲生氏郷は、
利休の息子・少庵を会津若松にかくまった。
その頃、少庵が建てたとされるのがこの茶室。
氏郷や徳川家康の嘆願によって、後に千家は再興し、
今日に至るまでその茶道が伝えられている。

なお、麟閣は戊辰戦争後、取り壊しを免れて別の場所に移されたが、
1990年(平成2年)、元あった場所に再移築された。

鶴ヶ城のホームページはこちら。(会津若松市観光公社)


ゴーンという鐘の音が聞こえると思ったら、
もう正午を回っていた。
今日中に会津若松の観光地を、全部回るのは難しいかも。

かつてお城の建物が続いていたであろう広場の前を通り、
非常時には落とすことができたという朱塗りの「廊下橋」を渡る。
鶴ヶ城三の丸口バス停で、12時24分、ちょうどやってきたハイカラさん号に乗った。


御薬園

12時32分、御薬園(おやくえん)入口で下車(ゲーム路銀 ¥5,250-¥200=¥5,050)。
(入園料¥310)
保科氏(→松平氏)の別荘で、2代藩主保科正経のときに、薬草園が設けられた。

薬草園には今もさまざまな植物が育てられている。
「センキュウ」を見て、
ゲームブック『送り雛は瑠璃色の』の園芸部を思い出した。

奥の建物は重陽閣といい、秩父宮妃勢津子殿下が御成婚の際宿泊された、
東山温泉の旅館の別館を移築したもの。
勢津子妃殿下は松平容保の孫で、この御成婚は会津の人々にとって、
“朝敵”との汚名を晴らすできごとだったという。


薬草園の隣は、池泉回遊式庭園。
小さな庭園だが、その分、見どころは凝縮されている。特に松の枝ぶりは見事。
心字池の中にある楽寿亭には、戊辰戦争のときについた刀の跡が今でも残る。
御茶屋御殿は戊辰戦争時、新政府軍の診療所とされたため、戦火を免れた。

売店で薬草茶(はと麦・大麦・クコ等ブレンド)をごちそうになった。
おみやげ物とともに、いろいろな薬草が売られている。
その中に、なんと弟切草があった。はれもの、月経不順、鎮痛にいいらしい。

御薬園のホームページはこちら。(会津若松市観光公社)

御薬園を出て、慶山入口バス停まで歩くが、バス停を探している間にバスが通過。
そこから10メートルほど歩いた所がバス停だった。
今のバスが午後1時32分。次は2時2分まで来ない。
次の目的地までは、それほど遠くなさそうなので、歩いてみた。

道の途中から左の山に行くと、近藤勇の墓があるらしい。
土方歳三が近藤勇の遺髪を埋めたといわれている。
しかし私はそちらへは寄らず、東山温泉への道をまっすぐ進む。
東山温泉のホームページはこちら
歩くこと10分。会津武家屋敷にやってきた(入場料¥850)。

朝から何も食べてなかったので、ここで食事をしたいと思う。
たまたま通りかかったスタッフのかたが、食堂までの道を案内してくださった。
檜枝岐天ざるそばを食す。旅先での食事は、幸せを感じる。


会津武家屋敷

さて、会津武家屋敷である。
中心となる建物は「家老屋敷」。
会津藩家老・西郷頼母(たのも)邸を復元したものだ。

門の脇には、頼母の養子、西郷四郎の像がある。
柔道家で、『姿三四郎』のモデルとなったそうだ。

屋敷の部屋数は実に38。畳の数が328枚。
これだけ広いのは、単に家老一家の住む場所だけではなく、
仕事場や使用人の部屋なども、1つの建物として造られたから。
屋敷の外をぐるりと回れば、ほとんどの部屋を見ることができる。
藩主のための部屋・お成りの間では、大河ドラマ『新選組』のロケも行なわれたという。

等身大の人形を使って、当時の様子を再現した部屋もある。
無邪気にはしゃぐ2人の子供を、母親がたしなめるという、ほほえましい場面も。

家老屋敷のそばにある藩米精米所では、
直径4メートルの水車が回り、お米をつく装置が動いていた。

新選組や、幕末の会津藩の偉人を紹介する「会津歴史資料館」を見て、先へ進むと、
頼母一族が自刃する場面を再現した部屋があった。
鶴ヶ城での籠城に先立って、その足手まといにならないようにと、
頼母の妻・西郷千重子と、その娘たちが、逆さ屏風の前に白装束で、
今にも息絶えんとしているところ。
先ほど無邪気に遊んでいた2人の子供は、既に横たわり、全身に白い布がかけられていた。

生々しい光景だが、現実にはさらに、頼母の妹や、親族も含め
21人もの人々が、このとき自決を遂げたという。
千重子と娘、頼母の妹の辞世の短歌が残されていた。

「なよたけの風にまかする身ながらも たわまぬ節はありとこそきけ」(千重子)
「死にかへり いくたび世には生きるとも ますら武夫と なりなんものを」(頼母の妹・眉寿子)
「もののふの道と聞きしをたよりにて 思ひ立ちぬるよみの旅かな」(頼母の妹・由布子)

このように彼女たちの創作物が残っていることで、
この悲劇が決して絵空事ではなく、現実に起こったことであるというのを実感させられる。

その後、江戸時代の奉行所・旧中畑陣屋(県指定重要文化財)、
茶室麟閣の復元、養蚕農家の建物を移築した「会津くらしの歴史館」、
佐々木只三郎の墓(清河八郎を暗殺。
坂本龍馬と中岡慎太郎の暗殺にも関わったといわれる)、
会津を舞台とした文学作品などを展示した「心の美術館・青龍」、
そして会津天満宮などを見て回る。

会津武家屋敷のホームページはこちら。

雨はやんだが、薄暗くなった。時刻は3時54分。
ガイドブックを見てみると、旧滝沢本陣が午後6時まで開いていると書いてあったので、
4時10分のハイカラさん号に乗って、行ってみる。
4時16分、飯盛山下下車(ゲーム路銀 ¥5,050-¥200=¥4,850)。


飯盛山

旧滝沢本陣は、白虎隊が出発した場所だが……。
入口に貼り紙が。

「本日都合により臨時休館いたします」

また雨が降ってきた。日も落ちてきたし、明日またここへ来ることにしよう。
4時46分のハイカラさん号で駅まで戻る。
ゲーム路銀 ¥4,850-¥200=¥4,650)。
52分着。いったんホテルに戻って休憩。
さあ今日もタイトーステーションへ行こう。バスに乗って郵便局前下車。
ゲーム路銀 ¥4,650-¥160=¥4,490)。

歩いている途中、
ゲームプラザウィングという
ゲーセンを見つけたので入ってみた。

『ナムコクラシックコレクションVol.2』があったので、
『ディグダグ』アレンジモードをプレー。
このゲームは面数が稼げる。10面クリアー。
1プレー¥50だったので、ゲーム路銀 ¥4,490+¥450=¥4,940


野口英世青春館

またまた旧会陽医院へやってきた。
1階は「會津壹番館」という喫茶店、
2階は「野口英世青春館」という資料室になっている。
今回は青春館の中に入ってみた(入館料¥100)。

ここは、野口英世が手の手術を受けた医院であり、
またその後、英世が15歳から19歳までの間、書生となって医学を学んだ所でもある。
館内には当時の写真や、詳細なエピソードが展示されていた。
「ナポレオンは3時間しか眠らなかった」と言って、夜中まで猛勉強した話から、
女学生・山内ヨネに片思いした話まで。

山内ヨネへの恋は結局実らなかったという。
私も幾度か片思いを経験しているだけに、英世の心境がよくわかり、
歴史上の人物と思っていた英世が、親近感のある存在に思えてきた。
ヨネのお兄さんに接近し、仲良くなったというエピソードなどは涙ぐましい。

ヨネのほうがさぞ迷惑したであろうこともうかがえ、
それも自分の若いときに重ね合わせられる。
当時を思い出してしまって、もう切なくて切なくて。

そのほか、ペルーにある、英世を記念して名づけられた学校や病院、
ガーナに残っている、英世の研究所の写真も多数あった。

1階の喫茶店「會津壹番館」でコーヒーを飲む。静かでレトロで落ち着いた雰囲気。
喫茶店には珍しく、禁煙室と喫煙室が分けられていた。
さすが、もと医院だった場所である。
私はまったく煙草を吸わないので、禁煙席があるのはうれしい。

會津壹番館(野口英世青春館)のホームページはこちら。

くつろいだところで、6時25分、
向かいのタイトーステーション会津若松に入る。

前回から2ヶ月経っていたが、『あっかんべぇだぁ〜』はまだあった。
手始めに16面クリアー。続いて18面クリアー。
今頃になって気づいたが、スタート時点から自機が5機設定になっている。
だから、家でプレーしているときより進めるのか。

さらにプレーする。コツもだんだんつかめてきたのか、遂に20面までクリアー!
19面クリアー。13面クリアー。
さすがに疲れてきたので、この辺で引き上げた。
ゲーム路銀 ¥4,940+¥8,100=¥13,040

時刻は7時50分になった。
バスで駅前に戻る(ゲーム路銀 ¥13,040-¥160=¥12,880)。
ホテル1階の居酒屋で、豚しょうが焼定食を食べた。

ホテルの部屋で午後10時15分頃、弱い地震に遭遇。
以前、仙台から帰った2日後に、宮城県沖で強い地震があったのを思い出した。

現在のゲーム路銀
¥12,880

今回のルート


会津若松市のホームページ  あいLove会津  パーフェクトあいづ
福島の旅  JR東日本仙台支社
次回、「日本縦断ゲーセン紀行 49.福島編(5)」では、
ラーメンを食べて蔵を見る。
「日本縦断ゲーセン紀行 47.福島編(3)」に戻る


「ゲイムマンのダイスステーション」タイトルページに戻る
「ゲーム脳」徹底検証シリーズ
※これより外部リンク ダイスステーション トップページ

「ゲーム脳」徹底検証シリーズ
※これより外部リンク ダイスステーション トップページ
「ゲーム脳」徹底検証シリーズ
※これより外部リンク ダイスステーション トップページ