ゲイムマンのダイスステーション 日本縦断ゲーセン紀行
48.白のはかなさ、白のせつなさ
スタート時点での「ゲーム路銀」は、「ゲーセン」にちなんで¥5,000(G千)。 2005年12月1日。体調:やや疲れ気味。眠い。肩痛い。 もっとも、今までにもこんな調子で東京をたって、 旅の間に回復したことが多々あるので、気にしないことにする。
郡山で降りて、磐越西線に乗り換えだが、郡山で40分近く待つはめに。 寒い中で待つのもつらいなあと思いつつホームに行ってみると、
郡山駅で買った「小原庄助べんとう」を食べる。しめじご飯の幕の内弁当。 食べ終わった頃、ちょうど発車となった。 発車直後、すぐ右の線路を、寝台特急北斗星が走っていて、驚く。 側面のエンブレムや、食堂車グランシャリオの車内まではっきり見えた。 しかし間もなく北斗星とは離れ、磐越西線を進んでいく。 上りのダイヤが乱れた影響で、2分遅れの8時43分、会津若松駅に到着。
12月2日。案の定、体調は万全。 外は雨だが、家々の屋根には、雪がうっすら積もっている。
細い道を縫うように走る。こういうルートを走るには、 このバスの大きさがちょうどいいのだろう。 もちろんさまざまな観光案内も流れる。 9時18分、鶴ヶ城北口着(ゲーム路銀 ¥5,450-¥200=¥5,250)。
ごく最近リニューアルされたそうで、展示は明るくて見やすい。 まず第一層では、歴代藩主の変遷を紹介。 戦国大名の葦名氏に始まり、その葦名氏を伊達政宗が破る。 豊臣秀吉の意向で蒲生氏郷が入城。 氏郷がこの土地を「黒川」から「若松」に改名し、七層の天守閣を築いた。 上杉景勝が入封するも、関ヶ原の戦いに敗れて米沢へ転封。 氏郷の子・秀行を経て、加藤嘉明が城主となる。 その子・加藤明成の代に、地震で崩れていた天守閣を再建。 現在復元されている、五層の天守閣が完成した。 しかしこの大工事や、家臣の出奔などで幕府に目をつけられ、 明成は領地を召し上げられてしまう。 その後に入ったのが、徳川秀忠の子・保科正之である。 正之本人は、徳川家綱の守り役として江戸に在勤し、ほとんど会津には帰らなかったが、 家訓十五ヶ条を作って、幕府への忠誠を家臣や子孫に指示した。 その子孫が、戊辰戦争時の藩主、松平容保(かたもり)である。 こうして見ていくと、歴史のさまざまな転換点に、 会津が深くかかわっていたことがわかる。 階段を下りて、石垣の内側にある塩蔵へ。 野面積み(のづらづみ)された石垣は、昔のまま残されたもの。 第二層。日新館の学問、伝統的なおもちゃ(凧や赤べこ、起き上がりこぼしなど)、 会津の伝統産業(絵ろうそく、漆器、酒、桐、焼き物)、お城での生活についての展示。 第三層は、戊辰戦争の解説。松平容保は、朝廷と幕府の融和を狙っていたが、 将軍徳川家茂と、孝明天皇が相次いで亡くなり、後ろ盾を失った。 鳥羽伏見の戦いに敗れると、新政府から会津追討令が出る。 容保は新政府へ恭順する意思を示すが、 かつて容保が京都守護職として、尊王派を追放し、 蛤御門の変で長州藩を撃退していたことなどから、新政府はこれを拒否して白河城に出兵。 東北・北陸の各藩は、奥羽越列藩同盟を結成して対抗するが、白河、二本松、長岡と陥落。 母成峠(ぼなりとうげ)から攻め入る政府軍に、会津軍が応戦するも敗れ、 かの白虎隊の悲劇が起きる。 鶴ヶ城での籠城戦を前に、戦いの足手まといにならぬよう、 老人、女性、子供が自害するといった悲劇も起きている。 城には連日砲弾が撃ち込まれ、食糧もなくなり、1ヶ月後、遂に会津藩は降伏する。 会津松平家は後に、下北半島で斗南藩として再興。藩士たちは極寒の地の開拓に挑んだ。 容保は謹慎を解かれ、日光東照宮の宮司として晩年を過ごしたそうだ。
なお、麟閣は戊辰戦争後、取り壊しを免れて別の場所に移されたが、 1990年(平成2年)、元あった場所に再移築された。 鶴ヶ城のホームページはこちら。(会津若松市観光公社)
かつてお城の建物が続いていたであろう広場の前を通り、 非常時には落とすことができたという朱塗りの「廊下橋」を渡る。 鶴ヶ城三の丸口バス停で、12時24分、ちょうどやってきたハイカラさん号に乗った。
12時32分、御薬園(おやくえん)入口で下車(ゲーム路銀 ¥5,250-¥200=¥5,050)。 (入園料¥310) 保科氏(→松平氏)の別荘で、2代藩主保科正経のときに、薬草園が設けられた。
奥の建物は重陽閣といい、秩父宮妃勢津子殿下が御成婚の際宿泊された、 東山温泉の旅館の別館を移築したもの。 勢津子妃殿下は松平容保の孫で、この御成婚は会津の人々にとって、 “朝敵”との汚名を晴らすできごとだったという。
薬草園の隣は、池泉回遊式庭園。 小さな庭園だが、その分、見どころは凝縮されている。特に松の枝ぶりは見事。 心字池の中にある楽寿亭には、戊辰戦争のときについた刀の跡が今でも残る。 御茶屋御殿は戊辰戦争時、新政府軍の診療所とされたため、戦火を免れた。 売店で薬草茶(はと麦・大麦・クコ等ブレンド)をごちそうになった。 おみやげ物とともに、いろいろな薬草が売られている。 その中に、なんと弟切草があった。はれもの、月経不順、鎮痛にいいらしい。
御薬園を出て、慶山入口バス停まで歩くが、バス停を探している間にバスが通過。 そこから10メートルほど歩いた所がバス停だった。 今のバスが午後1時32分。次は2時2分まで来ない。 次の目的地までは、それほど遠くなさそうなので、歩いてみた。 道の途中から左の山に行くと、近藤勇の墓があるらしい。 土方歳三が近藤勇の遺髪を埋めたといわれている。 しかし私はそちらへは寄らず、東山温泉への道をまっすぐ進む。 (東山温泉のホームページはこちら) 歩くこと10分。会津武家屋敷にやってきた(入場料¥850)。 朝から何も食べてなかったので、ここで食事をしたいと思う。 たまたま通りかかったスタッフのかたが、食堂までの道を案内してくださった。 檜枝岐天ざるそばを食す。旅先での食事は、幸せを感じる。
門の脇には、頼母の養子、西郷四郎の像がある。 柔道家で、『姿三四郎』のモデルとなったそうだ。 屋敷の部屋数は実に38。畳の数が328枚。 これだけ広いのは、単に家老一家の住む場所だけではなく、 仕事場や使用人の部屋なども、1つの建物として造られたから。 屋敷の外をぐるりと回れば、ほとんどの部屋を見ることができる。 藩主のための部屋・お成りの間では、大河ドラマ『新選組』のロケも行なわれたという。 等身大の人形を使って、当時の様子を再現した部屋もある。 無邪気にはしゃぐ2人の子供を、母親がたしなめるという、ほほえましい場面も。 家老屋敷のそばにある藩米精米所では、 直径4メートルの水車が回り、お米をつく装置が動いていた。 新選組や、幕末の会津藩の偉人を紹介する「会津歴史資料館」を見て、先へ進むと、 頼母一族が自刃する場面を再現した部屋があった。 鶴ヶ城での籠城に先立って、その足手まといにならないようにと、 頼母の妻・西郷千重子と、その娘たちが、逆さ屏風の前に白装束で、 今にも息絶えんとしているところ。 先ほど無邪気に遊んでいた2人の子供は、既に横たわり、全身に白い布がかけられていた。 生々しい光景だが、現実にはさらに、頼母の妹や、親族も含め 21人もの人々が、このとき自決を遂げたという。 千重子と娘、頼母の妹の辞世の短歌が残されていた。 「なよたけの風にまかする身ながらも たわまぬ節はありとこそきけ」(千重子) このように彼女たちの創作物が残っていることで、 この悲劇が決して絵空事ではなく、現実に起こったことであるというのを実感させられる。 その後、江戸時代の奉行所・旧中畑陣屋(県指定重要文化財)、 茶室麟閣の復元、養蚕農家の建物を移築した「会津くらしの歴史館」、 佐々木只三郎の墓(清河八郎を暗殺。 坂本龍馬と中岡慎太郎の暗殺にも関わったといわれる)、 会津を舞台とした文学作品などを展示した「心の美術館・青龍」、 そして会津天満宮などを見て回る。 会津武家屋敷のホームページはこちら。 雨はやんだが、薄暗くなった。時刻は3時54分。 ガイドブックを見てみると、旧滝沢本陣が午後6時まで開いていると書いてあったので、 4時10分のハイカラさん号に乗って、行ってみる。 4時16分、飯盛山下下車(ゲーム路銀 ¥5,050-¥200=¥4,850)。
また雨が降ってきた。日も落ちてきたし、明日またここへ来ることにしよう。 4時46分のハイカラさん号で駅まで戻る。 (ゲーム路銀 ¥4,850-¥200=¥4,650)。 52分着。いったんホテルに戻って休憩。 さあ今日もタイトーステーションへ行こう。バスに乗って郵便局前下車。 (ゲーム路銀 ¥4,650-¥160=¥4,490)。
『ナムコクラシックコレクションVol.2』があったので、 『ディグダグ』アレンジモードをプレー。 このゲームは面数が稼げる。10面クリアー。 1プレー¥50だったので、ゲーム路銀 ¥4,490+¥450=¥4,940。
ここは、野口英世が手の手術を受けた医院であり、 またその後、英世が15歳から19歳までの間、書生となって医学を学んだ所でもある。 館内には当時の写真や、詳細なエピソードが展示されていた。 「ナポレオンは3時間しか眠らなかった」と言って、夜中まで猛勉強した話から、 女学生・山内ヨネに片思いした話まで。 山内ヨネへの恋は結局実らなかったという。 私も幾度か片思いを経験しているだけに、英世の心境がよくわかり、 歴史上の人物と思っていた英世が、親近感のある存在に思えてきた。 ヨネのお兄さんに接近し、仲良くなったというエピソードなどは涙ぐましい。 ヨネのほうがさぞ迷惑したであろうこともうかがえ、 それも自分の若いときに重ね合わせられる。 当時を思い出してしまって、もう切なくて切なくて。 そのほか、ペルーにある、英世を記念して名づけられた学校や病院、 ガーナに残っている、英世の研究所の写真も多数あった。 1階の喫茶店「會津壹番館」でコーヒーを飲む。静かでレトロで落ち着いた雰囲気。 喫茶店には珍しく、禁煙室と喫煙室が分けられていた。 さすが、もと医院だった場所である。 私はまったく煙草を吸わないので、禁煙席があるのはうれしい。 會津壹番館(野口英世青春館)のホームページはこちら。
前回から2ヶ月経っていたが、『あっかんべぇだぁ〜』はまだあった。 手始めに16面クリアー。続いて18面クリアー。 今頃になって気づいたが、スタート時点から自機が5機設定になっている。 だから、家でプレーしているときより進めるのか。 さらにプレーする。コツもだんだんつかめてきたのか、遂に20面までクリアー! 19面クリアー。13面クリアー。 さすがに疲れてきたので、この辺で引き上げた。 (ゲーム路銀 ¥4,940+¥8,100=¥13,040) 時刻は7時50分になった。 バスで駅前に戻る(ゲーム路銀 ¥13,040-¥160=¥12,880)。 ホテル1階の居酒屋で、豚しょうが焼定食を食べた。 ホテルの部屋で午後10時15分頃、弱い地震に遭遇。 以前、仙台から帰った2日後に、宮城県沖で強い地震があったのを思い出した。 ¥12,880 今回のルート ![]() 会津若松市のホームページ あいLove会津 パーフェクトあいづ 福島の旅 JR東日本仙台支社 次回、「日本縦断ゲーセン紀行 49.福島編(5)」では、 ラーメンを食べて蔵を見る。 「日本縦断ゲーセン紀行 47.福島編(3)」に戻る 「ゲイムマンのダイスステーション」タイトルページに戻る |
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