ゲイムマンのダイスステーション 日本縦断ゲーセン紀行
50.幕末を生きた人々
スタート時点での「ゲーム路銀」は、「ゲーセン」にちなんで¥5,000(G千)。
9時25分のバスで、飯盛山へ(ゲーム路銀 ¥12,240-¥200=¥12,040)。 昔の看板が展示される神禧堂薬館や、会州一蔵品館など、市街地にある古い建物の前を通る。 ちょっと遠回りなルートだったので、目的地に着いたのは9時40分。
ここは歴代会津藩主が、参勤交代などのときに立ち寄って旅支度を整えた場所。 戊辰戦争時には大本営となり、 あの白虎隊(士中二番隊)はここから出陣した。 国重要文化財にして、文部省史蹟。 入ったところは、武家というより典型的な古民家といった感じ。いろりもある。 しかしその奥に、一段高くなった「御座の間」があった。 遠州流の中庭もある。 この部屋の柱や障子枠には、そこらじゅうに、 戊辰戦争時の弾痕や刀傷があり、血なまぐさい歴史を今日に伝えている。 一方、案内テープの声は、会津なまりの素朴なもので、 途中で紙をめくる音まで入っている。 素朴な農家の様子と、戦乱の歴史と、両方が混在する、不思議な史跡だった。
幕末を生きた、さまざまな人物の写真が展示されていたのが印象深い。 会津藩士、新選組、娘子隊、奥羽越列藩同盟、西軍(新政府軍)方と、 数多くの人が、それぞれの立場で戊辰戦争にかかわり、 また生き残った人々が、明治時代いろんな分野で活躍したことがわかり、興味深い。 ほかにも、会津藩で使われた刀のつばや、白虎隊の脇差、鏡や器などの日用品、 東西両軍の銃などが展示され、内容の濃い資料館だった。 館長さんの熱意がすごいなあと思う。
こちらは広いスペース。 日新館の教科書に始まり、各種の銃や陣羽織、 白虎隊士で後に東京帝大総長となった山川健次郎の書、 自刃した隊士・津川喜代美の手紙、自刃するも一命をとりとめた飯沼貞吉の書、 近藤勇の鉢がね、島田魁の新選組袖章、 娘子軍(じょうしぐん)隊長として戦い、戦死した中野竹子の書、 西軍諸将の書などなど。 秋篠宮妃殿下の曽祖父・池上四郎も、鶴ヶ城で籠城を経験したそうだ。
日新館の様子や、滝沢本陣からの白虎隊の出陣、 煙に包まれる城を、飯盛山から眺める白虎隊士の姿などが、人形で再現されていた。 2階には、第二次大戦時、京都、鎌倉、奈良、そして会津を爆撃から救った ウォーナー博士に関する資料や、 『荒城の月』を作詞した土井晩翠の資料、 徳富蘇峰に関する資料など。 (この記念館の創立者・早川喜代次氏は、蘇峰の顧問弁護士だったそうだ)
時刻は12時15分。いよいよ白虎隊自刃の地へと向かう。 エスカレーターに乗っても良かったが、乗らずに階段を行こう。 これくらいの階段なら、過去に何度も上っている。 雪解け水が、木の上からポタポタ落ちてくる。 途中、息を切らして小休止するが、根性で上りきった。 小さな広場の周りを、さまざまな碑がぐるりと囲んでいる。 禁を犯して白虎隊士の遺体を埋葬した肝煎・吉田伊惣次氏篤志の碑。 (函館の碧血碑にも、似た話があったなあ) 亡くなった女性たちをまつった、会津藩殉難烈婦の碑。
そしてこの広場の奥に、白虎隊士たちの墓があった。 今も参拝者が絶えず、線香の匂いがする。 墓は明治23年に建てられた。 19人それぞれの名前が刻まれた、19の小さな墓石が並んでいる。 右側には、会津の各地で戦死した白虎隊士31名の墓が、同じ形で並ぶ。 左側には、各地で戦死した、白虎隊と同年代の会津少年武士の慰霊碑がある。 背後の木立と、抜けるような青空が、あまりにさわやかすぎて、切ない。 小道に入り、飯沼貞吉の墓を拝む。 そしてその先に、まさに白虎隊が自刃した地があった。 意外なことに、周囲を一般の墓地に囲まれている。
白虎隊は、15〜17歳の少年たちから成る。 ここで亡くなったのは、白虎隊の中でも、身分の高い武士の子息から成る士中隊だった。 白虎士中隊は、松平容保を護衛して滝沢本陣にいたが、 戦線が近くの戸ノ口原まで迫っていたため、 一番隊を本陣に残し、二番隊が援軍として現地に向かった。 しかし着いた頃には既に勝敗がほぼ決しており、二番隊も散り散りになってしまう。 残った17名(諸説あり)は、城に戻って最後まで戦うべく、 かんがい用の水路を通って飯盛山までたどり着く。 だがまさにこの場所で、城下が炎に包まれているのを見て、城が落ちたと思い、 意を決して全員が自刃した。 ただ1人、飯沼貞吉だけが一命をとりとめ、彼の証言によって この白虎隊の悲劇が、後世に語り継がれることになった。 他の場所で自害した隊士も含め、現在では19名がまつられている。 土産物屋さんでお茶を買い、景色を見ながら飲む。 白虎隊がこの景色を眺めたときの心境を考えると、 単なる楽しみでここを眺めるのも、申しわけないような気がする。 いや、彼らのような先人たちの働きがあったからこそ、今の平和が築かれているのだ。 だったらこうして景色を楽しめるほどの平和を、大いに享受すべきではないだろうか。 ……そんな勝手な解釈で、強引に自分を納得させた。
昔は三十三観音が安置されていたらしいが、 明治以降、皇朝二十四孝の絵になった。 それらの絵を見ながら、右回りのらせんスロープを上り、 折り返して左回りの下りとなったが、 確かに、同じ絵を一度も見ることなく、地上に出てきた。 不思議。 さざえ堂のホームページはこちら。
坂を下りてまっすぐ行くと、さっきの白虎隊伝承史学館の前に至る。 私は途中で左に折れ、太夫桜とよばれる、大きな桜の木の前を通過。 白虎隊記念館のほうに戻ってきた。 飯盛山下バス停到着、午後1時57分。 次のバスは2時11分。次の列車が2時46分なので、ちょうどいいくらいの時刻だろう。 バスはたいへん混んでいた。2時20分、会津若松駅着。 (ゲーム路銀 ¥12,040-¥200=¥11,840)。 ロッカーから荷物を出して、切符を買って、食べ物を買って、改札を抜ける。 郡山行き、新潟行き列車の出発を、相次いで見送る。
2時46分発車。こうしてまたひとつ、拠点とした町を後にする。 駅Cafeの七日町に停車。 左手、市街地の向こうに、山々がきれいに見える。サンドイッチを食べ終わる。 西若松停車。ここまでがJR、ここから先は第三セクターの会津鉄道だ。 駅舎は真壁造り(和風ハーフティンバー)の、新しいものだった。 西若松を出る。なおしばらく住宅地は続く。左の連山がきれい。 門田(もんでん)の手前でいったん家並みが途切れ、右側にも山が姿を現す。 ここが盆地ということがよくわかる。 門田を出たところに柿の木が並び、たわわに実をつけている。
気がつくと、左の山々が間近に迫っていた。あまやを出ると、右の山もだんだんと近づく。 芦ノ牧温泉駅。懐かしい感じの木造駅舎。 ここもかつて、ミニ独立国「ジパング国会津芦ノ牧藩」だった所だが、 温泉が駅からちょっと遠いので、通過しますごめんなさい。 芦ノ牧温泉のホームページはこちら。 左が山、右が崖。山の中腹を通っている。 長いトンネルを抜ける。
また長いトンネル。抜けて川を渡り、トンネル。 そのトンネルを出たところが湯野上温泉駅だった。 3時25分着。ここで降りた。(ゲーム路銀 ¥11,840-¥1,000=¥10,840)。
駅の中でちょっとくつろごうと思ったが、気がつくと、さっきの列車がまだ止まっている。 これを見送ると、次の上りは午後4時台。 考えを変えて、この列車に、発車間際に飛び乗った。 この駅からは、湯野上温泉の温泉街が近いほか、 かやぶき屋根の建物が並ぶ、大内宿にも行くことができる。 大内宿にも行きたかったが、バス便がなく、行き帰りともタクシーなので、 ゲーム路銀のことを考えると、さすがにちゅうちょした。 湯野上温泉のホームページはこちら。 大内宿観光協会のホームページはこちら。 「あいLove会津」にも、大内宿の紹介がある。 3時33分発。大川が左側すぐ下に、続いて右側に見えるという、雄大な車窓風景。
車道を歩くこと約3分。景勝地、塔のへつりにやってきた。
4時10分、駅に戻った。次の上りは4時22分。 駅舎内は暖房こそないが、案外寒さをしのげる。 踏み切りの警報機が鳴った。やってきたのは、 ……AIZUマウントエクスプレス用車両、キハ8500系だ! 普通列車として運用されることもあるのか。 おかげで、リクライニングシートの座り心地を堪能できた。 左側、大きな窓から、崖の下を流れる大川が見えた。 トンネルを1つ抜けると川は消え、住宅地に。 また川を渡る。外は薄暗くなってきている。 会津下郷を出てすぐ、湖のように広くなった川を渡った。 田畑は雪に覆われていて、真っ白な平原と化している。 わずかにあぜ道の盛り上がりがあるので、かろうじて農地とわかる。 養鱒公園駅の先で、えらく複雑に分岐した川を渡る。 これは支流の加藤谷川(かどたにがわ)というらしい。のんびり走るキハ8500。 田島高校前駅の近くから、家が増えてきた。
もう日が暮れている。田島で行きたい場所もあるが、 次回またここからスタートすることにしよう。 うーん、2005年中に東北を出られなかったか。 5時14分の鬼怒川温泉行きに乗る。引き続き8500系。ただしさっきとは別の車両。 6時21分、鬼怒川温泉着。隣のホームに停車中の、 特急きぬ(スペーシア)に乗り換える。26分発。
雷門の前から延びる道路に、浅草らしい祭りを描いたイルミネーションが輝いていた。 ¥9,980 今回のルート ![]() ![]() 会津若松観光物産協会 下郷観光チャンネル 下郷町観光協会 南会津町のホームページ あいLove会津 パーフェクトあいづ 福島の旅 JR東日本仙台支社 会津鉄道 次回、「日本縦断ゲーセン紀行 51.福島編(7)」では、 遂に念願の栃木県入り。 「日本縦断ゲーセン紀行 49.福島編(5)」に戻る 「ゲイムマンのダイスステーション」タイトルページに戻る |
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