ゲイムマンのダイスステーション

日本縦断ゲーセン紀行

228.華やかな桜と寺と遊覧船
〜滋賀編(19)〜


スタート時点での「ゲーム路銀」は、「ゲーセン」にちなんで¥5,000(G千)。
ゲーセンでゲームをプレイして、1面クリアーするごとに、
「ゲーム路銀」は¥100ずつ増える。
(ただし、1プレイ¥50円のゲームなら¥50ずつ、1プレイ¥200なら¥200ずつ。
 ゲームをプレイするためのお金も、「ゲーム路銀」からねん出する)
この「ゲーム路銀」だけを交通費にして、日本縦断を目指すのだ!
(前回までのゲーム路銀 ¥2,030


2019年4月8日。東京駅午後6時10分発の、のぞみ57号に乗る。

3月から病院に通って、薬をもらっているので、
以前のような不安感や寝不足、急な動悸などはなくなった。
ただ長時間寝ても眠気が取れなかったり、お腹の調子が悪くなることが多かったりする。

今回は花見の旅を楽しもうと思っているが、体調が今一つで、
予定より1日出発を遅らせた。
お寺へ行く予定なので、花まつりの日に合わせたかったのだが。

今日も何だか疲れてる。新幹線でけっこう寝た。
あと、1人で荷物を持って新幹線に乗ってるときに、トイレへ行くのはかなりしんどい。
こんな体調で先行きが不安。

不安といえば去年作ったゲームが大コケしたので、収入の不安がずっと頭にある。
旅関連のブログを新たに始めて、それで何とかしようと思っているのだが、
その取材まで体がもつかどうか。

午後8時22分、京都駅着。ホテルにチェックイン。コンビニで晩ごはんを買った。

翌4月9日。薬のおかげで午前2時半にちゃんと寝られて、予定通り8時半起床……
のはずが、前に泊まった人がセットしたと思われるアラームが7時45分に鳴ってしまい、
目が覚めてそれから寝つけず。アラームの設定・解除の仕方がわかりにくい時計だ。
とはいえ新しいホテルなので快適だし、マットレスが良いせいか、寝覚めが良い。

窓から新幹線のホームがよく見える。

10時8分発の米原行きに乗る。今日は晴れてるが寒い。着込んできて良かった。
山科で京阪京津線に乗り換えるが、15分待ち。10時30分発。
今日はまず、琵琶湖の遊覧船に乗りたいのだが、
出航時刻に間に合うかどうかちょっと気になる。
ただ、京津線の車窓から時折見える桜が美しい。

びわ湖浜大津

10時44分、終点のびわ湖浜大津駅着。
今回はここからスタート。

歩道橋を渡って、大津港へ向かう。

モニュメントが一直線ではなくて、
少しずれて建っているのが不思議。

浜大津アーカスと湖岸の桜。
アーカスのロッテリアで
朝ごはんにしたかったが、
あそこまで行ってたら
ちょっと間に合わないか。

11時40分発の、遊覧船ミシガン号の乗船券を買った(¥2,780)。
待合室のカフェでオムライスを食べる。時間が気になったが、
料理が早く出てきたので余裕で食べられた。うまかった。
ちょうど食べ終わる頃、ミシガン号が港に到着した。

ミシガン号。
アメリカ・ミシシッピー川の
蒸気船をイメージした、
大きくて優雅な船だ。
1982年就航だが、古さは感じさせない。

日本で、ほかにこのタイプの外輪船といえば、
東京ディズニーランドのマーク・トゥエイン号くらいか。
乗り場のBGMや、アナウンスによる盛り上げもあって、
これからアトラクションが始まるというワクワク感が高まる。

11時30分乗船。普通の乗船券では3階と4階に入れる。
(1階と2階、3階の一部は予約席)

4階は屋上デッキなので見晴らしがいい。
今日はちょっと寒いけど。

3階は室内席。広くて快適。

エンターテイナーによる出航の合図あり。
11時40分出航。

左にびわ湖競艇場が見える。ちょうどレース中。

右側には、
浜大津からプリンスホテルにかけての、
個性的な建物群。

競艇場のあたりで、岸から離れていく。

船内をあちこち回ってみた。
4階から操舵室が見られる。

2階から間近に見る
パドル(外輪)は迫力あり。

1階からも見られる。

びわ湖大津プリンスホテルそばの、
におの浜観光港に寄港。

岸辺に桜が並んでいる。

琵琶湖汽船(びわ湖クルーズ)

再び岸を離れる。右に三上山。

左に大津京の街と、比叡山。

さらには比良山地も。
左右どちらの岸も適度に離れていて、
広い範囲を見渡せる。

風がある割に湖面は穏やか。のんびり、まったりした時間を堪能できる。
ユリカモメが船の周りを行き交う。

トイレに入っている間に、観光案内のアナウンスが始まって、前半を聞き逃してしまう。
ちなみに、船の中だけどトイレはきれいだった。

大津港のびわこ花噴水。

三井寺の桜がとても華やか。
山の中腹あたりまで桜色。

柳が崎湖畔公園港に寄港。
前回訪れた、びわ湖大津館を写真に撮る。

柳が崎を出ると、3階のステージにて、
大津港までショータイム。
ミュージカルナンバー。

平日の昼間、しかも団体客も家族連れもいないという、
ショーを行なうには厳しい条件だったと思うが、歌もパフォーマンスも良かった。

ショーの終盤頃に、ミシガン号は
びわこ花噴水のすぐ横を通り抜けた。

午後1時ちょうど、大津港着。
景色もショーも船そのものもひっくるめて、
楽しいアトラクションだった。

琵琶湖汽船(びわ湖クルーズ)

午後1時30分、びわ湖浜大津駅に戻ってきた。
次に目指すのは三井寺(みいでら)。
電車でも行けるけど、すぐ隣の駅だし、未乗区間でもないので歩いてみる。

駅前の「明日都(あすと)浜大津」というビルの、2階の広場の片隅に、
「大津城跡」と書かれた案内板があった。
この大津港一帯が、桃山時代の大津城跡にあたる。

大津城は1586年(天正14年)頃、豊臣秀吉が坂本城を廃城にし、
その代わりとして浅野長政に築かせた城。
以後、城主は短期間で代わる。1595年(文禄4年)、近江八幡の八幡山城が廃城となり、
城主だった京極高次がこちらへ移ってきた。

1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの際、
高次は東軍に味方したが、西軍の軍勢1万5千が大津城を包囲。
高次側は籠城し、兵力差のある中でよく奮戦する。
最後は降伏したものの、高次がここで7日間粘ったため、
大津城を攻めていた軍勢は、関ヶ原の戦いに間に合わなかった。

この戦いが徳川家康に高く評価され、高次は若狭に栄転。
大津城は廃城となり、代わりに膳所(ぜぜ)城が築かれる。
建物の一部は膳所城のほか、彦根城にも移築されたといわれている。

明日都浜大津の下の道が、
石山坂本線の通る路面区間。

児童公園の桜がきれい。

三井寺(みいでら)

午後1時46分、三井寺駅に到着。

ここは琵琶湖疏水の入口付近。
琵琶湖の方向を見ると、
電車が通り過ぎるのが見える。

逆方向が三井寺への道。
琵琶湖疏水に沿って歩く。
正面の山腹がまるで桜の壁。
三井寺に近づくにつれ、華やかになってくる。

このまままっすぐ歩いても
お寺には行けるはずだが、
正面の大門からは少しずれるので、
大津閘門の前で折れて、
1本右の道からお寺に向かう。

大門へ向かう道なので、こっちが表参道だと思っていたけど、
思っていたより道が狭い。しかも車が多くて歩きにくい。
ともあれ、午後2時ちょうどに、三井寺(園城寺)大門前に到着した。

駐車場の周りの桜並木がまずきれい。

三井寺の大門(仁王門)。
慶長6年(1601年)、徳川家康が寄進。
元々は常楽寺という別のお寺の門で、
1452年(宝徳4年)に建てられた。
重要文化財だが、
この時期ばかりは桜の引き立て役か。

三井寺は正式には長等山園城寺(ながらさんおんじょうじ)という。
天台寺門宗の総本山。
672年の壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)が敗れた後、皇子の大友与多王が、
父の霊を弔うために創建したと伝わる。

859年(貞観元年)、智証大師円珍が初代長吏(別当)となり、
当寺を天台別院として中興した。
円珍は貞観10年に天台座主となる。

しかし円珍没後、天台宗は円珍門流と円仁門流の2派に別れて対立し、
993年(正暦4年)、円珍派は比叡山を下りて三井寺へ移った。
以降、比叡山延暦寺は山門、三井寺は寺門と呼ばれる。
今となっては考えられないが、両寺は歴史上たびたび争いを起こしてきた。

ここから有料(入場料¥600)。
まずは釈迦堂。室町初期の建築とみられるが、
京都御所の清涼殿を移築したものという
伝説もある。

続いて金堂。三井寺の総本堂にあたる。
国宝。

1595年(文禄4年)、豊臣秀吉は三井寺に闕所(けっしょ)を命じ、
寺領を全て没収した(理由は不明)。
このとき金堂は延暦寺に移された(西塔の釈迦堂として現存する)。
だが秀吉は最晩年にこの処分を解除し、三井寺の再興を認めた。
秀吉没後の1599年(慶長4年)、秀吉正室・北政所(おね)の寄進により、
新たな金堂が建てられた。これが今の金堂である。

金堂のそばに、
三井寺を象徴するものが並んでいる。
まずは鐘楼(重要文化財)。
近江八景「三井の晩鐘」として知られる。

鐘楼と梵鐘はともに、1602年(慶長7年)に造られた。
この鐘は参拝客がつくことができるようで、たびたび厳かな音が鳴り渡る。

近江八景なので、鉄道唱歌にもこの鐘は出てくるのだが、

堅田におつる雁がねの たえまに響く三井の鐘
夕ぐれさむき唐崎の 松には雨のかかるらん

と、別の近江八景「堅田の落雁」「唐崎の夜雨」とひとまとめにされている。

もう1つ三井寺を象徴するものが泉だが、こちらはまた後ほど。

金堂の中に入り、御本尊の弥勒菩薩様にお参り。
といっても絶対秘仏で、見ることはできないのだが。
天智天皇の念持仏と伝わる。

秘仏といえば、三井寺には「黄不動」こと金色不動明王画像もある。
平安時代に描かれ、日本三不動の一つに数えられる。国宝。
838年(承和5年)、比叡山で修行中だった若き円珍の目の前に、不動明王が現れた。
その姿をただちに画工に描かせたのが、この黄不動だという。
こちらは過去何度か公開されたことがあるらしい。

園城寺(三井寺)

引き続き、三井寺の金堂。
さまざまな仏像が並ぶ。順に手を合わせる。
武人のような大黒天。北極星を神格化した尊星王。円空仏。
平安時代の大日如来。不動明王などなど。

信仰の対象でもあり、美術品としても素晴らしく、
各時代の造像様式を知る資料としても貴重。
二度三度行き来して鑑賞する。

もちろん国宝である建物自体もじっくり見る。
屋根の構造を表した模型もあった。

はるか昔から伝わる仏像が並ぶのと同じ空間で、企画展として、
「囚人リク」の漫画家・瀬口忍先生の原画展が行なわれている。
不思議というか、面白い。
十数年前までなら多分あり得なかったこと。良い傾向。

お守りをお受けする。かわいらしい姿の弁慶のお守りにした。
伝説によると、弁慶は三井寺と対立していた頃の、延暦寺の僧だったはずだが……。

園城寺(三井寺)

金堂の裏手に、教待堂。円珍が入山する前に三井寺をまもっていた教待和尚をまつる。
教待は円珍を迎えると、石窟に入って姿を隠したとされる。
隣には熊野権現社と、智証大師(円珍)の石像。

そして閼伽井屋(あかいや)。
この中に湧いている泉は、
天智天皇・天武天皇・持統天皇の
産湯に用いられたことから
「三井の霊泉」と呼ばれており、
これが「三井寺」という名の由来になっている。
(三井は「御井」の意味もあるようだ)

閼伽井屋の建物は1600年(慶長5年)建立。
(重要文化財)
この龍の彫刻は、左甚五郎作と伝わる。
夜な夜な寺を抜け出して、
琵琶湖に出て暴れたので、
甚五郎自身が龍の眼に釘を打ったという
伝説がある。

閼伽井屋のそばにある霊鐘堂。
実は現在の鐘楼にある鐘
(三井の晩鐘)は2代目で、
こちらに納められているのが
初代の鐘だという。

瀬田の唐橋のところでも書いたが、
藤原秀郷(俵藤太)が三上山の大ムカデを退治した際、
そのお礼として竜宮から贈られた物の一つだと言われる。
実際、この鐘が造られたのは、秀郷の時代より前の奈良時代までさかのぼるようだ。
重要文化財。

表面に、摩擦痕などの損傷が目立つ。
伝説では、平安時代末期に起こった延暦寺との争いで、
延暦寺の僧侶だった武蔵坊弁慶がこの鐘を奪い、一人で延暦寺まで引きずり上げた。
ところがこの鐘をつくと、「イノー、イノー」(帰りたい)と鳴ったので、
怒った弁慶が谷に投げ捨てたという。

鐘の隣に「弁慶の汁鍋」という大きな鍋がある。
弁慶が持っていた鍋だそうだが、だとすればなぜ三井寺にあるのかは謎。
江戸時代の「近江名所図会」にも載っているそうだ。

毛利輝元から寄進された一切経蔵。重要文化財。
堂内には巨大な八角形の輪蔵がある。
一切経が納められた書庫。
外から見たときよりも高さを感じる。

園城寺(三井寺)

経蔵から石段を下りて、金堂前に戻る。
とにかく桜が凄い。

天狗杉とか、天智天皇薬指の石灯篭とか、
不思議な話の伝わる物があるけど、それよりも桜に見入ってしまう。

でももう午後3時を過ぎてるので、
先へ進まないと。
(この写真の左に天狗杉)

(※天狗杉の伝説)
かつてこの先の勧学院で修行していた道了という僧が、
ある夜突然天狗になって飛び出し、この杉に登ると、
夜明けとともに東の空へ飛んでいった。
彼が着いた所は小田原の山奥で、そこが現在の大雄山最乗寺(道了尊)だという。

(※天智天皇薬指の石灯篭の伝説)
金堂前の石灯篭の下には、天智天皇の薬指が埋まっているという。
乙巳の変(大化の改新)で蘇我氏を滅亡させたことへの罪滅ぼしのためだそうだ。

少し進んで、金堂の方に振り返ると、
さらに多くの、大きな桜の木々が景色を彩る。

桜以外に、椿も見事に花を咲かせている。

唐院。智証大師円珍の廟所で、
三井寺の中でも最も神聖な場所とされる。
重要文化財。

唐院の角にしだれ桜。

三重塔に桜吹雪が舞う。

この三重塔は、入口の大門とともに、1601年(慶長6年)徳川家康が寄進したもの。
すぐ近くにさっきの一切経蔵があるのだが、こちらを毛利輝元が寄進したのは翌慶長7年。
関ヶ原の戦いで西軍大将だった輝元はなぜ、
東軍大将の家康が寄進した三重塔のすぐ隣に経蔵を建てたのだろうか?

石段を下りて、また金堂前に出た。
村雲橋を渡る。この橋にも伝説がある。

ある日、円珍がこの橋を渡った際にふと西の空を見ると、
かつて修行していた長安の青龍寺が火事になっているのが見えた。
ただちに円珍が水を撒くと、その水は雲になって西へ向かった。
後日、青龍寺からお礼の手紙が届いたそうだ。
村雲橋という名前は、この伝説に由来する。

1日いても飽きない景色だけれど、もう午後3時40分。
今日じゅうに回り切れないかもしれない。

勧学院の塀から見越す桜。

微妙寺の桜。
このお寺の中も参拝可。

微妙寺の向かいに、三井寺文化財収蔵庫があった。
2014年に開館した、真新しい建物だ。
入館は午後4時まで可能。現在、午後3時50分! ぎりぎり入れる!(入館料¥300)

勧学院客殿の障壁画(狩野光信筆)を中心に、貴重な仏画仏像を展示。
数は多くないが、それぞれ素晴らしい。
ふすま絵の展示がメインということもあって、
館内の雰囲気そのものが、穏やかかつ厳かな感じ。

入口では三井寺のキャラクター「べんべん」のグッズを販売中。
明らかに弁慶がモデルなんだけど、弁慶は三井寺と対立していた頃の延暦寺の僧……。

文化財収蔵庫を出て、どことなくユーモラスなお地蔵さんが並ぶ道を歩く。

三井寺では珍しい極彩色の毘沙門堂(重要文化財)。

十八明神社という小さなほこらには、「ねずみの宮」という別名がある。
「太平記」によると、白河天皇からの要請で、
三井寺の頼豪という阿闍梨が皇子誕生を祈願して、
間もなく敦文親王が生まれた(1075年・承保元年)。
褒美として白河天皇は、三井寺に戒壇道場の建立を認めた。
これで三井寺は独自に僧侶を育てることができるようになるはずだった。

ところが比叡山の強訴で、この勅許が取り消されてしまう。
(まさに「賀茂川の水、双六の賽、山法師」の「山法師」である)
怒った頼豪は断食して命を絶ち、その怨念が8万4千匹ものネズミ(鉄鼠)と化して
比叡山に押し寄せ、経典や仏像、堂塔を食い荒らしたという。
(「平家物語」では生まれた皇子もネズミに呪い殺されたことになっているが、
史実では敦文親王は、頼豪よりもかなり前に死去している)

十八明神社は、この鉄鼠の霊をまつっていると伝えられ、
それで比叡山の方角を向いているのだそうだ。

園城寺(三井寺)

観音堂は、西国三十三観音霊場の第14番札所。
現在の建物は1689年(元禄2年)に再建。
この観音堂を中心とする一帯には、
江戸中期から後期にかけて諸堂が建てられ、
「南院札所伽藍」を構成する。

観月舞台の背景が、桜で埋め尽くされている。

琵琶湖の方向を見ても、視界いっぱいに桜。

隣の絵馬堂からの眺めがさらに良かった。
桜の花越しに、
ちょうどいい感じで琵琶湖が見える。
びわこ競艇場の水面のあたり。
掲示板も見えた。

観音堂の中へ。ここの御本尊も秘仏で、33年ごとに御開帳される。
平安時代に彫られた、一面六臂、つまり腕が6本ある如意輪観音坐像だそうだ。

観音堂の内陣も拝観した(拝観料¥300)。
参拝所に下がっている布が、御前立の観音様とつながっているのが見えた。
石山寺の御本尊から綱が伸びているのと似た形。
そういえば石山寺の御本尊も如意輪観音で、33年ごとに御開帳される秘仏だ。

内陣には親鸞聖人、蓮如聖人の像なども。絵馬も多数。

観音堂からさらに階段を上がると、展望台がある。
滋賀県警察官忠魂碑、大津そろばんの碑などが並ぶ。
ここから見る景色がまた素晴らしかった。

琵琶湖がよく見える。
松尾芭蕉、正岡子規から、
皇太子時代のニコライ2世まで、
さまざまな人物が
ここからの景色を眺めたという名所。

南院札所伽藍越しに、
皇子山陸上競技場まで見えるとは
思わなかった。

展望台に咲く桜もきれいだった。

観音堂前へ戻り、諸堂を拝観する。
百体堂には、西国三十三ヶ所、坂東三十三ヶ所、秩父三十四ヶ所の、
合わせて百観音がまつられている。

あと、こちらにも鐘楼があった。
ここの鐘にも伝説がある。僧侶たちが鐘を鋳造する資金の寄付を町の富豪に願ったが、
「うちには金などない。子供なら寄進できるほどいるが」と言われて断られた。
後日、無事に鐘が出来上がると、そこには3人の子供の姿が浮かび上がっており、
同時に例の富豪の子供3人が、行方知れずになったそうだ。
なお、このときの鐘は第二次世界大戦の際、金属供出により失われた。

「漫画家による仏の世界展」という特別展が開催されていた。
いろんな漫画家さんが描いた仏教画が展示されているようだが、
午後4時終了のため、残念ながら見られなかった。
「仏の世界展」は各地を巡回して行なわれているそうなので、いずれ機会があれば。

漫画家による仏の世界展

長い石段を下りて、
薬師如来をまつる水観寺の前で
午後5時を迎える。
閉まる途中だったが、
手を合わせることはできた。

受付から外へ出る。ここから無料エリアらしい。

護法善神堂に、門の外から手を合わせる。

園城寺(三井寺)

時間が中途半端だったので、何か食べてくか、このまま歩くか凄く迷ったが、
結局大門前の食堂で「力餅」を食べた。
串に刺してあって団子っぽいけど、柔らかいきな粉餅。ほどよい甘さ。

午後6時少し前。
帰りは琵琶湖疏水を目指して南へ進む。
大門前から東へ向かう参道よりも、
道は広いし、桜がきれい。

ガス灯も風情がある。

三尾神社の前を通ると、琵琶湖疏水に出た。

水門が見える。

疏水に沿って歩くと、その先の橋に
人々が集まっていた。

ここが春の琵琶湖疏水のフォトスポット。
桜のトンネルの下に、まっすぐな水の流れ。
水門の先の水路は、京都へと続いている。

琵琶湖疏水のこの区間は、1890年(明治23年)に開通した。
琵琶湖の水を京都へ送るとともに、水力発電も行ない、かつては水運にも使われた。

三井寺駅に戻ってきた。今日も浜大津アーカスのラウンドワンに行こうと思うが、
行きと同じく電車には乗らず、歩いてびわ湖浜大津駅へ向かう。

びわ湖浜大津

来たときと同じ道を通って、
びわ湖浜大津駅に到着。

ペデストリアンデッキを通って
浜大津アーカスへ。

今日のお昼に乗った外輪船ミシガン号が、
大津港に停泊している。

ちょうど、夜の「びわこ花噴水」の時間だった。

前回も来た、ラウンドワン浜大津アーカス店へ。
またまた「太鼓の達人」をプレイしようと思うが、
このゲームは私が前回ブルーVer.をプレイしてから間もなくアップデートされ、
今回はグリーンVer.になっていた。
ここでのプレイ金額は以前と変わらず、4曲¥100。

まずはこのグリーンVer.から入った新曲、
「世界はあなたに笑いかけている」(Little Glee Monster)をプレイ。
もちろん今回もふつうモード。

次にプレイするのは、「ワールズエンド・ダンスホール」。
作者のwowakaさんが4月5日に亡くなられたという発表があったばかりで、
哀悼の意を込めてこの曲をプレイ。
しかし初見だとふつうモードでもけっこう難しかった。

3曲目は「ルカルカ★ナイトフィーバー」。
この曲を作ったsamfreeさんも若くして亡くなられており、
その頃にこの曲をプレイしたのを思い出して、ここでもまたプレイしてみた。

最後は米津玄師さんの「Lemon」。
単純に、wowakaさんと同じくボカロP出身だからという軽い理由で
米津さんの曲を選んでみたけど、
この流れの中で「Lemon」を聞いたら、泣きそうになった。

30代で亡くなる方がいる一方で、
軽い体調不良を繰り返したり、1月に失神を起こしたりしながらも、
大した実績もなく40代後半まで生きてる自分は、なぜ生かされているのだろうか?

ゲーム路銀 ¥2,030-¥100+¥400=¥2,330

まだ午後7時を過ぎたばかりだけど、下の階で早めに晩ごはん。オムライス。
そういや昼もオムライスだったか。
外はすっかり暗くなり、花噴水が良く見える。

ケチャップオムライスに満足。さあ駅に戻ろう。

浜大津アーカス

びわ湖浜大津駅着、午後7時59分。今日はここで終了、続きはまた明日。
8時4分発の太秦天神川行きに乗って、ホテルのある京都まで戻る。
朝もこのくらいの待ち時間で来てほしかった。
山科で乗り換えて、8時27分、京都駅着。


現在のゲーム路銀
¥2,330

今回のルート

びわ湖大津観光協会  びわこビジターズビューロー(滋賀県)
JRおでかけネット(JR西日本)  京阪電気鉄道


次回、「日本縦断ゲーセン紀行 229.滋賀編(20)」では、
悪天候と凡ミスで困ったことに。
「日本縦断ゲーセン紀行 227.滋賀編(18)」に戻る


「ゲイムマンのダイスステーション」タイトルページに戻る
「ゲイムマンの日本縦断紀行」ブログに戻る

「ゲーム脳」徹底検証シリーズ
※これより外部リンク ダイスステーション トップページ