ゲイムマンのダイスステーション

日本縦断ゲーセン紀行

226.義仲と芭蕉とマラソンと元ホテル
〜滋賀編(17)〜


スタート時点での「ゲーム路銀」は、「ゲーセン」にちなんで¥5,000(G千)。
ゲーセンでゲームをプレイして、1面クリアーするごとに、
「ゲーム路銀」は¥100ずつ増える。
(ただし、1プレイ¥50円のゲームなら¥50ずつ、1プレイ¥200なら¥200ずつ。
 ゲームをプレイするためのお金も、「ゲーム路銀」からねん出する)
この「ゲーム路銀」だけを交通費にして、日本縦断を目指すのだ!
(前回までのゲーム路銀 ¥2,040


びわ湖大津プリンスホテル

2019年2月28日。8時半起床。睡眠5時間半だが、
寝入りばなに何度か足がびくっとして(ジャーキング)、
入眠が遅れたので、正味もう少し短いかも。

ホテルの窓から景色を見るけど、
かすんでよく見えない。
雨だし、冬なので、今日は
屋内の施設を中心に予定を組んでみた。

10時頃出発。大津駅行きの送迎バスもあるけど、今日は湖岸沿いを歩いていこう。

蒸気機関車C57が保存されていた。
以前ここにあった、大津市科学館に
展示されていたものらしい。

近くには、薬害ヤコブ病全国患者家族の会が建てた、「薬害根絶の碑」もあった。

再び湖岸沿いを歩く。
それにしても、湖の方は
かすんで何も見えない。

イオンタウンの吉野家で朝ごはん。
30分歩いたので、既に現時点でちょっと疲れている。

膳所(ぜぜ)

湖から離れて、膳所(ぜぜ)駅の方へ向かう。
「におの浜」という地名で、相撲の鳰の湖関を思い出した。
「鳰の湖(におのうみ)」というのは琵琶湖のことらしい。

交差点の角にある公園に、松尾芭蕉の句碑がひっそりと建つ。
「草の戸や日暮れてくれし菊の酒」
元禄4年(1691年)の、9月9日の重陽の節句。
当時、義仲寺の無名庵に住んでいた芭蕉のもとに、
門人の乙州(おとくに)が、酒ひと樽を持って訪ねてきたことを詠んだ句。
重陽の節句には、長寿を願って酒を飲む風習があった。

その義仲寺(ぎちゅうじ)へ来た。
ここに木曽義仲と松尾芭蕉の墓があるらしい。
(拝観料¥300)

住宅地の中の狭い境内だが、
見どころが詰まっている。
芭蕉と門人の句碑がそこここに。

「行春(ゆくはる)をあふみの人とおしみける」

史料観(史料館)を見る。
芭蕉のものと伝わる杖。
伊藤若冲の天井画の複製(本物はかつて、芭蕉をまつる翁堂にあった)。
江戸時代の俳人・蝶夢上人の文台。
蝶夢は芭蕉の研究・顕彰を行ない、義仲寺の再建にも尽力した人物。

本堂の朝日堂。木曽義仲をまつる。

それと向かい合わせに、
「巴塚」と刻まれた小さな石碑。
巴御前の墓と伝わる。

その奥に、芭蕉が暮らした
無名庵が再建されている。

「古池や蛙飛こむ水の音」の句碑がある。
門人の又玄(ゆうげん)が詠んだ、「木曽殿と背中合せの寒さかな」の句碑も。
(無名庵にいた芭蕉を又玄が訪ねたときに詠んだ句)

山吹御前の塚もある。もとは大津駅前にあったが、
駅の拡張工事の際、こちらに移されたらしい。

巴塚の隣に、木曽義仲の墓があった。
これほどの有名人の墓にしては、少し小さい気もするが、
戦いに敗れた人物の墓がこうしてきちんと作られ、
今日まで遺っていることは素晴らしい。

木曽義仲(源義仲)は1183年(寿永2年)、倶利伽羅峠の戦いなどで平氏の大軍を破り、
平氏を京から追い出した。
しかし軍勢の統率に失敗し、また皇位継承問題に介入しようとしたため、
後白河法皇と対立。
法皇は源頼朝と急接近し、
頼朝の命を受けた弟の範頼・義経が、大軍を率いて上洛する。
義仲は宇治川で範頼・義経軍と戦ったが敗れ、粟津で討ち死にした。

義仲寺に伝わるところによると、
後に1人の尼僧が義仲の墓の近くに庵を結び、義仲を供養していた。
義仲とともに戦った側室の巴御前とみられるが、
里の人に名前を聞かれても、「名も無き女性」と答えていたという。
(「無名庵」という名はここから来ている)
戦国時代には荒廃していたが、近江守・佐々木氏が再建する。

義仲の墓の隣に、松尾芭蕉の墓がある。
これほどの有名人の墓にしては、少し小さい気もするが、
まあ義仲公より大きな墓にはできなかっただろう。

芭蕉は義仲を大変敬愛していた。義仲の隣に墓が作られたのも、芭蕉自身の遺言による。
芭蕉は1694年(元禄7年)大坂で逝去するが、門人がなきがらをここまで運んできて葬った。

芭蕉の没後、再び荒廃しかけるが、1769年(明和6年)蝶夢により再興。
蝶夢は芭蕉の墓を守るために寺を再興したのだが、
結果的に木曽義仲の墓を守ることにもなった。
いわば、芭蕉が自らの死後、尊敬する義仲のために役立ったことになる。

池のある庭の向こうに、芭蕉をまつる翁堂。

天井画が伊藤若冲筆だそうだ。
現在翁堂にあるのは複製画だが、色あせていたのをそのまま複製した感じ。

翁堂のそばに建つ句碑が、ひときわ大きかった。
「旅に病で夢は枯野をかけ廻(めぐ)る」

いちばん奥にひっそりと、文芸評論家・保田與重郎の墓が建つ。
昭和期に荒廃していた義仲寺の建て直しに協力した人物の一人。

義仲寺を後にする。
私も芭蕉翁のお墓にお参りしたから、「おくのほそ道」のように、
後世に遺る作品を作れるかなあと思っていたけど、多分それはない。
昨日、石山寺の紫式部の間でも同じことを思ったけど、多分ありえない。

最後に、山門脇にある巴地蔵堂にお参り。
私も、巴御前のような女性と、どうかおつき合いできますように、とお願いする。
理想のタイプは巴御前のような強く美しい女性だが、多分そんな人と、というより、
もう女の人とつき合うことはできないんじゃないかという、
あきらめの気持ちもそろそろ出てきた。

歴史上の有名人のお墓、それも1人でも観光名所になり得るクラスの人物の
お墓が2基も並んでいる。
そんなお寺が、普通の市街地にひっそりたたずんでいるのは、不思議な感じがした。

膳所(ぜぜ)

膳所駅に来た。
冬だし、雨が降っているので、
この先は屋内の施設を回ることにする。
目指すは大津市歴史博物館。
江戸時代の大津名物だったという、
大津絵を見たい。

石山坂本線に乗ろうと思ったが、学生さんの多い時間帯みたいで、ホームは大混雑。
12時31分発の電車を見送ったが、車内はそれほど混んでなかったから乗れたかも。
次の41分発・坂本比叡山口行きに乗る。
向かいのホームに、「ちはやふる」のラッピング車両が来た。
一方こちらに来たのは、桜の花があしらわれた、おーいお茶のラッピング車両。

出発すると、左にあったJR琵琶湖線の線路は間もなく離れていき、
左右とも住宅地になった。
石場駅を出てすぐ、右に広い通りが並行。びわ湖ホールの建物が大きい。
滋賀県立芸術劇場 びわ湖ホール

続いて見えてきた、お城のような建物は、閉鎖中の滋賀県立琵琶湖文化館。
島ノ関駅を出ると、左に小学校。右に琵琶湖ホテルと、商業施設の浜大津アーカス。

12時46分、びわ湖浜大津駅着。
目的地ではないが、ここでいったん降りる。

〜石場〜島ノ関〜
びわ湖浜大津(旧・浜大津)

トイレに駆け込む。実は膳所のホームで待ってるときから行きたくなってた。

階段を下りてホームに戻る。
階段の上の壁に、
大きな大津絵が描かれていた。
「鬼の寒念仏」と「藤娘」。

あらためて、12時56分発の坂本比叡山口行きに乗った。
駅を出て、交差点を渡る。
いかにも路面電車然とした石山坂本線の電車だが、
道路を走る区間は、次の三井寺駅までの1区間だけだ。

三井寺駅から小さな川を渡って、再び専用軌条へ。
(後で知ったが、今の川が琵琶湖疏水だ)
引き続き家並みの中を走る。

やがて左に大津商業高校が見え、右に皇子山陸上競技場が見える。
左に大津市役所が現れた。

午後1時ちょうど、大津市役所前駅着。
ここで降りた。
ゲーム路銀 ¥2,040-¥170=¥1,870

〜三井寺(みいでら)〜
大津市役所前(旧・別所)

この駅は、つい最近まで別所駅だった。
2018年3月改名。このとき一緒に、
びわ湖浜大津(旧・浜大津)、
京阪大津京(旧・皇子山)、
坂本比叡山口(旧・坂本)も改名した。

ここの駅前にも、大津絵が展示されていた。

道路沿いに、いくつも並んでいる。

駅から徒歩8分、大津市歴史博物館に到着。
最後の上り坂で、少し時間がかかった。

大津市歴史博物館。
建物全体を撮ろうと思って、
いったん坂の下まで下りてみた。

そこに屋外展示があった。
穴太(あのう)遺跡の温突(オンドル)遺構。
古代からこの地には、
朝鮮から来た渡来人が住んでいたらしい。

堤康次郎氏の銅像が建っていた。
西武グループの創業者で、
元衆議院議長でもある。
滋賀県出身で、大津市名誉市民。
大津市にあった米軍キャンプ地返還や、
膳所刑務所の移転などに貢献したそうだ。

今日、プリンスホテルに泊まってます。お世話になっております。

江戸時代に牛車が使った「車石」。
一種の舗装道路らしい。

博物館の前から琵琶湖が見えた。

大津市歴史博物館に入る(入館料¥320)。
前半は、大津市内各地の歴史についての展示。
大津市は非常に広く、それぞれの地域が独自の歴史を持っている。
各地域の昔の町並みをジオラマで表現。

まず、いちばん北の堅田(かたた)。16世紀半ばの風景。
琵琶湖に突き出た満月寺浮御堂(うきみどう)が有名だが、
この時代は普通の民家みたいな形だった。
今のように、松島の五大堂に近い形になるのは江戸時代以降。

堅田は舟運の権利を持っていて、物流の中心地として栄えた。
蓮如がたびたび訪れ、一時ここを拠点としたらしい。

ニンテンドーDSを使った音声ガイドがあるそうだ。
昔、東京の上野の国立西洋美術館で使ったときは、
ゲーム機のこういう使い方に新しさを感じたものだ。
ただあれから12年以上経っているし、DSだとちょっと古い感じがする。
スマホか、せめてSwitchに移植するのは難しいのだろうか?

次は比叡・坂本。江戸時代後期の坂本のジオラマ。
このへんは今もあまり変わってないかも。
もっとも江戸時代以前は、織田信長の焼き討ちから、坂本城築城、
秀吉時代以降の山門復興と、激動をくぐり抜けている。

大津百町。札ノ辻のジオラマ。東海道の宿場町。
関ヶ原の戦いの際、大津城が西軍に攻められたが、京極高次が奮戦。
大津を攻撃した軍勢を、関ヶ原の本戦に間に合わせなかった。
その後、城は膳所に移り、大津は港町、商業都市として発展した。

1612年(慶長17年)、大津で国産初のそろばんが作られたそうだ。
大津算盤(そろばん)の製作道具が展示されている。
同じく大津の特産品だったという、縫い針の「御針所」看板も。

そして大津絵。
軸装された仏画が展示されている。
江戸時代のものなので、かなり色あせているが、素朴なタッチで味わい深い。

大津絵は、江戸時代初期には仏画が中心だったが、
やがて題材が世俗的になり、さらに風刺画が多くなった。
絵師が店先で描いて売ることもあったらしい。

大津市歴史博物館

「近江八景」の部屋には、大きな立体地図があり、
八景それぞれの位置が表示されている。
石山秋月、瀬田夕照、粟津晴嵐は昨日通ったあたりか。
比良暮雪は対岸から見た。三井晩鐘の三井寺は、この博物館の隣だ。

近江八景は、歌川広重の浮世絵で有名になった。
もとが同じ瀟湘八景なので、横浜の金沢八景に似ている。

膳所。江戸時代末期の膳所城のジオラマがある。天守と本丸が、湖に突き出していた。
江戸時代には、藩主御用窯の膳所焼があった。

もちろん松尾芭蕉とのゆかりも。義仲寺を再興した蝶夢の「芭蕉翁絵詞伝」がある。
そして伊藤若冲の四季花卉図。あの義仲寺の翁堂にあった天井画だ。
奇想天外な感じではない花の画だけど、さすがにうまい。
もとは石峯寺観音堂の天井画だったが、廃仏毀釈で売却され、一部が義仲寺に来た。

ミニ企画展「叡山文庫の仏像史料」。延暦寺に関する古い記録を展示。
こことは別に、独立した企画展示室が2階にあり、
企画展「フェノロサの愛した寺・法明院」が行なわれるのだが、
始まるのは2日後の3月2日から。(4月14日に終了しています)

2階へ。近江大津宮。
667年、中大兄皇子は飛鳥からここ大津に遷都し、翌年即位した(天智天皇)。
しかし天智天皇崩御後、壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)が敗れ、
大海人皇子(天武天皇)は飛鳥に遷都。大津が都だったのは、わずか5年あまりだった。
とはいえ、京都どころか奈良よりも古いと考えると、
大津という街に対する印象も変わってくる。

大津宮中枢部のジオラマを展示。今の近江神宮前駅のあたりに内裏があったらしい。
壬申の乱当時の瀬田橋の模型もある。今の唐橋よりほんの少し南にあったらしい。

大津市歴史博物館

ここからは、大津の歴史を時系列で。原始・古代の遺跡出土品。
石山寺の石山貝塚(しじみ塚)の土器もある。
石山寺も相当古いが、その寺ができる前に人々が作った物が、残っているのも凄い。

大津宮とか、藤原仲麻呂の保良宮(ほらのみや・石山にあったらしい)、
そして延暦寺とかが、まだ古代のくくり。

中世。木曽義仲が平家を京から追い出したが、源頼朝の軍勢に敗れ、粟津で戦死。
頼朝が石山寺に、多宝塔などを寄進した。
延暦寺と園城寺(三井寺)の間に抗争があった。

戦国時代、織田・徳川連合軍が姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を破るが、
その後、浅井・朝倉が逆襲し、坂本近くの宇佐山城で森可成らが討ち死にしている。
この戦いで浅井・朝倉軍に味方した比叡山を、翌1571年(元亀2年)信長が焼き討ち。
明智光秀により坂本城が築城される。

秀吉の時代に延暦寺と日吉大社は復興。坂本城は廃城となり、代わりに大津城が築かれた。
一方、理由はわかっていないが、園城寺は闕所(けっしょ・全財産没収)処分となった。
関ヶ原の戦いでは、前述のとおり京極高次が大津城で奮戦し、西軍を足止めさせている。

ちり紙をこよりにして書いた文字が展示されていた。
幕末、膳所藩の攘夷派藩士11人が、将軍徳川家茂の暗殺を企てたとして処刑された。
筆や紙のない獄中で彼らが書いたのがこの、こよりを使った辞世の句である。
そういうことがあった、という説明文だけでなく、こうして実物を目の当たりにすると、
獄中で彼らがどういう心境だったのか、考えさせられる。

大津市歴史博物館

明治に入ると交通インフラが大きく変化する。
1869年(明治2年)、湖上の水運に蒸気船が就航。
さらに、京都から鉄道がつながった。

以前、長浜の長浜鉄道スクエアでも紹介されていたが、
東海道本線は最初、琵琶湖の東西が線路でつながっておらず、
大津と長浜の間は船での輸送が行なわれていた。
そのため、大津駅は琵琶湖沿い、今のびわ湖浜大津駅にあった。
線路は馬場駅(今の膳所駅)を経由し、
ここでスイッチバックして京都へ向かっていた。

大正時代になると、京津電気軌道(今の京津線)、大津電車軌道(今の石山坂本線)、
江若(こうじゃく)鉄道といった私鉄も登場する。

1890年(明治23年)、琵琶湖疏水が開通。琵琶湖の水を京都に供給した。

1891年(明治24年)、大津事件が起こる。
来日中だったロシアのニコライ皇太子が、警備していた警察官に斬りつけられた事件。
皇太子は幸い一命を取り留め、後に皇帝ニコライ2世となったが、
ロシア革命で処刑されている。

東海道本線の全通(関ヶ原−馬場間の開通)後、琵琶湖の水運の役割が減少したため、
代わりに観光業に大きく舵が切られた。
1934年(昭和9年)、琵琶湖ホテル開業。
水泳場(海水浴場の琵琶湖版)も次々とオープンした。

戦時中、市内にあった軍事施設の土地に、戦後、進駐軍のキャンプが置かれた。
この博物館のあたりもキャンプ跡地。

最後は昭和30年代の写真。当時は高価だったカラーフィルムで撮影されている。
石山坂本線の石場駅のすぐそばが湖岸だったことに驚く。
今はなくなった水泳場の様子も。

2階の窓から琵琶湖が見える。
雨は上がったか?
対岸の真正面に、あんな目立つ形で
三上山が見えるとは。
藤原秀郷の大ムカデ伝説の舞台が
あの場所なのも納得がいく。

大津市歴史博物館

午後4時25分、大津市歴史博物館を後にする。ここに3時間もいたのか。
雨は上がった。

帰りも道路沿いの大津絵を見ながら歩く。
びわ湖浜大津駅の壁にもあった「鬼の寒念仏」。
お坊さんの格好をして念仏を唱えているが、
中身が鬼で心がこもってない様子を表している。

大津市役所前駅に戻ってきた。
しかし中には入らず、踏切を渡って東側へ。

そこに皇子山陸上競技場がある。

皇子山(おうじやま)陸上競技場は、
びわ湖毎日マラソンの
スタート/ゴール地点として知られる。

今年3月10日のびわ湖毎日マラソンは、
MGC(マラソングランドチャンピオンシップ)の、
最後の選考レースなので、
例年より注目が集まること必至。

※3月10日のレースでは、モロッコのブナスル選手が優勝した。
日本人トップは山本憲二選手、2位は川内優輝選手(ともにMGC出場権獲得済)。
山本浩之選手と河合代二選手がMGC出場権を獲得した。

メインスタンド裏。

アポロの像が建つ。

別の場所には聖火を掲げた銅像も。
びわこ国体(1981年)記念だそうだ。

皇子山総合運動公園(皇子山陸上競技場)

午後5時の鐘が鳴る中、
大津市役所前駅に戻った。
もちろんここにも、
びわ湖毎日マラソンのポスターがある。

5時3分発の坂本比叡山口行きに乗る。
右手に皇子山球場。
左からJR湖西線の高架が近づいてくる……と思う間もなく、

5時4分、京阪大津京駅着。ここで降りた。
この距離なら歩いてもよかったか。
ゲーム路銀 ¥1,870-¥170=¥1,700

京阪大津京(旧・皇子山)

湖西線の高架の下にある駅。
2018年3月、皇子山駅から改名した。

高架に沿って少し歩くと、JR大津京駅だ。

いまや大津市の西の拠点となった大津京駅。
大きなマンションが目立つ。
駅前のロータリーに、「時の泉」というモニュメントがあり、
額田王と大海人皇子の歌碑(あかねさす紫野行き標野行き……)が建つ。
(この歌について詳しくは第222回参照

ひときわ高いマンションの横を通って、
イオンスタイル大津京へ。

お腹が空いたので、まず4階フードコートへ。
マクドのチキンタツタを食べる。

フードコートの隣に、ゲームコーナー「モーリーファンタジー」があった。
プライズ。メダル。ガチャ。
「わいわいぱーく」という遊び場(風船がいっぱい飛び交うエリアもある)。
キッズ向けカードゲーム(戦え!ドラゴンクエスト スキャンバトラーズ、
ポケモンガオーレなど、ひと通りそろっている)。
プリクラ、というかシール機が1台(「サランヘ」)。
マリオカート アーケードGP DX、太鼓の達人。

メダルエリアに、自分より明らかに年上のお客さんが集まる風景も、
いまや珍しくなくなった。
近くにびわ湖競艇場があるので、その影響で
特にお客さんが多いということは……多分ないと思う。

「太鼓の達人」をプレイする。3曲¥100。今回は東方アレンジしばりにしよう。
ケロ9destiny、最終鬼畜妹フランドール・S、チルノのパーフェクトさんすう教室。
一応クリアしたが、「最終鬼畜〜」がふつうモードにしては初見殺し。
久しぶりに、ゲージが一杯にならない形でのクリアだった。
ゲーム路銀 ¥1,700-¥100+¥300=¥1,900

外に出た。午後6時27分。もちろんもう夜だ。
琵琶湖側に向かって歩く。高いマンションが並んでいて、琵琶湖は見えない。
どうやらこのあたりが、かつてテレビCMでよく知られていた、
「びわ湖温泉 ホテル紅葉(こうよう)」があった場所らしい。

北へしばらく歩く。6時43分、柳が崎湖畔公園に到着した。

びわ湖大津館の建物がライトアップされ、
想像以上に神々しい。

びわ湖大津館は、1934年(昭和9年)に開業した琵琶湖ホテルの建物だった。
ホテルは1998年(平成10年)浜大津に移転したが、
この建物は保存を望む市民の声が多く、大津市が買い取って公開している。

びわ湖大津館

びわ湖大津館の奥がすぐ湖岸。船着き場もある。
暗くて人も少なくて、聞こえるのは琵琶湖の静かな波の音だけ。

対岸は浜大津の街並み。
びわこ花噴水の時間に間に合った。
(この日は午後6時台)

浜大津ではほぼ毎日決まった時間に、
防波堤から噴水が上がる。
夜はライトアップされる。

浜大津の街の明かりと、
噴水の華やかさが相まって美しい。

振り返るとびわ湖大津館。
こちらの向きから見ても見事。

建物の中にもちょっと入ってみた。
各所の意匠をじっくり見たいけど、もう夜なので今日はここまで。
明日、この場所から再開しよう。

びわ湖大津館

午後7時6分、柳ヶ崎バス停着。
もし時間が合えば、バスで浜大津まで戻ろうと思ってたけど、
次のバスは7時35分までなかった。
そもそもこんな幹線ルートのバスが、ほぼ1時間に1本、多い時間帯でも2本。
観光には使いにくい。

結局歩いて大津京駅に戻る。
7時36分の石山寺行きに乗り、7時43分、びわ湖浜大津駅着。

びわ湖浜大津

ホテルの方向に行くバスがないか調べたが、もう終バスもないという体たらく。
駅の近くの商業施設、浜大津アーカスで晩ごはん、の前にトイレ行く。
疲れているせいなのか、今日はやたらトイレに行きたくなる。

おみやげ屋「湖の駅」で、湖の駅御膳を食べた。ビワマス定食。
アーカスにはラウンドワンがあり、ゲームコーナーもあるのだが、
今日のゲーセン紀行はびわ湖大津館で終了ということにしている。
だいいち疲れたし時間も遅い。

びわ湖浜大津駅からタクシーでホテルに戻ろうと思ったが、
タクシー代が気になったので、膳所(ぜぜ)から乗ることにする。
びわ湖浜大津駅午後8時51分発の、石山寺行き電車は、
「ちはやふる」のラッピング車両だった。

8時55分、京阪膳所駅着。

京阪膳所

駅前からタクシーに乗り、
9時3分にびわ湖大津プリンスホテル到着。
¥690。
タクシーだと速い。助かった。

ホテル入口に向かう通路の
イルミネーションを撮影。
開業30周年。

最後に、ホテルの最上階(38階)のバーへ行ってみた。
こういう所で、女の子との出会いとかないかなと、うっすら期待したが、
平日の遅い時間だったこともあり、1組のご夫婦がいただけで静か。
ただ、だからこそかえってゆっくりくつろげた。
窓から見える広い琵琶湖と、対岸の建物の光を、ただぼんやりと眺めていた。

びわ湖大津プリンスホテル


現在のゲーム路銀
¥1,900

今回のルート

びわ湖大津観光協会  びわこビジターズビューロー(滋賀県)
JRおでかけネット(JR西日本)  京阪電気鉄道


次回、「日本縦断ゲーセン紀行 227.滋賀編(18)」では、
もう一度じっくりびわ湖大津館を探訪。
「日本縦断ゲーセン紀行 225.滋賀編(16)」に戻る


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