ゲイムマンのダイスステーション

日本縦断ゲーセン紀行

205.金華山、岐阜城、そして鵜飼
〜岐阜編(2)〜


スタート時点での「ゲーム路銀」は、「ゲーセン」にちなんで¥5,000(G千)。
ゲーセンでゲームをプレーして、1面クリアーするごとに、
「ゲーム路銀」は¥100ずつ増える。
(ただし、1プレー¥50円のゲームなら¥50ずつ、1プレー¥200なら¥200ずつ。
 ゲームをプレーするためのお金も、「ゲーム路銀」からねん出する)
この「ゲーム路銀」だけを交通費にして、日本縦断を目指すのだ!
(前回までのゲーム路銀 ¥3,690




岐阜

2015年7月24日。8時半起床。睡眠5時間。
やっと晴れた。今日は岐阜城の天守閣に行ける。
ホテルで朝食をとり、外へ。暑い。久方ぶりの日差しなんでまぶしい。

JR岐阜駅の入口に、ミストが噴き出している。

10時2分発の岐阜女子大行きバスに乗る。
10時7分、徹明町着。今日はここからスタート。


徹明町(てつめいちょう)

昨日は夜に来て、
周りをよく見られなかったので、
あらためて写真を1枚撮る。
ドン・キホーテがある。

徹明町はかつて、名鉄の路面電車、
岐阜市内線と美濃町線が通っていた所。
これは2000年、
私が岐阜に来たとき撮った写真。

路面電車に乗ったとき、
路上に線を引いて囲っているだけのスペースをいくつか通り過ぎたが、
当時はあれが電停のホームだとはとても思えなかった。
車がびゅんびゅん通り過ぎる道路のど真ん中に線を引いただけ。

(※今調べたら、当時の美濃町線は名鉄岐阜から各務原線、田神線を通って、
途中の競輪場前から美濃町線に合流するルートがメインだったので、
もしかしたら私は徹明町を通ってなかったかもしれない)


「鉄子の旅」という漫画の中に、この路面電車が出てきたのを思い出した。
作者の菊池直恵先生が、
線で囲っただけのホームに驚いておられたシーンが印象に残っている。

今日はこれから、10時17分に来た、市内ループ左回りバスに乗って北を目指す。

窓に織田信長が描かれている。
10時27分、岐阜公園歴史博物館前に到着した。
ゲーム路銀 ¥3,690-¥210=¥3,480


岐阜公園歴史博物館前

昨日とはうって変わって素晴らしい青空。
地上から岐阜城天守がよく見える。

噴水も勢い良く流れる。

今日はまず、加藤栄三・東一記念美術館へ。
入館料¥300だが、昨日買った
「うーたん手形」で入れる。
中は涼しい。

第1展示室では、地元岐阜市出身の画家、加藤栄三・東一兄弟の作品を展示。
「風景との出逢い」と題して、主に風景画が展示されていた(8月2日まで)。

東一氏が描いた金華山の屏風絵。山に重量感があって、迫力が感じられる。
栄三氏の海水浴のスケッチは、見るだけで涼しくなる。
同じく栄三氏の「水郷風景 潮来」。あまりに自然で見過ごすとこだったが、
川の水を水彩でこんなリアルに描けるの凄い。

東一氏も、白川郷の雪の質感(あえて下半分を雪原にした構図!)、
ふるさとの山河の、水墨で表現した山の映る川など、
画風はさまざまだけど、どれも元の風景や空気感が感じられる。

両氏のどの作品も、そこにあるだけで心が落ち着く。癒しの空間を堪能した。

美術館建設時に発見されたかまどの遺構や、庭の孟宗金明竹を見て、第2展示室へ。

山田真己展(8月2日まで)。
山田氏は脳性麻痺で四肢機能に著障があり、足で絵を描いておられるそうだが、
絵そのものはそんな苦難を感じさせない、明るく華やかな色彩のものばかり。

山田氏は1972年生まれだそうだ。私より1歳若い。
自分より若い方の、こういう華々しい作品を目にすると、
「俺は今まで何やってたんだろう」と思う。

自分もゲームの世界で、風景の美しさや空気感を表現できればなあと思った。
ま、そんな芸術的なゲームを作るわけじゃないけど。
この文章をブログに載せる頃には、ゲーム制作がかなり進んでるといいなあ。

(※この後8月にゲームの舞台にする予定の愛媛県を取材して、
シナリオの大枠はある程度できつつありますが、
11月20日現在、実作業はほとんど進んでおりません……)


加藤栄三・東一記念美術館

11時27分。美術館の隣の、
ぎふ金華山ロープウェー山麓駅へ。
いよいよ岐阜城の天守に向かう。

ロープウェーは15分ヘッドで運行中。11時30分発の便に何とか間に合った。
運賃は往復¥1,080だが、うーたん手形を使うと¥100割引になる。
ゲーム路銀 ¥3,480-¥980=¥2,500

出発。眼下に長良川。その対岸に野球場と陸上競技場が見える。
高度が上がるにつれて、向こうに広がる街が見えてくる。

案内役の女性のアナウンスによると、金華山の標高は329メートルあるそうだ。

3分ほどで、山頂駅に到着した。

金華山ロープウェー

階段を上がる。
「天下第一の門」をくぐると、
道が平らになった。

二階堂行政から織田秀信まで、歴代城主について解説したパネルが立つ。
ここは木の陰だからか、意外と暑くない。

しかし平らだったのはここだけで、
その先はまた上り階段が続く。

天狗岩。
「千成びょうたん発祥の地」と
書かれたボードが立つ。

1567年(永禄10年)、信長の稲葉山城攻めのとき、
木下藤吉郎(豊臣秀吉)が、城兵を倒した槍の先に、
腰からさげていたひょうたんを結びつけて勝ちどきをあげたそうだ。
このことがきっかけで、秀吉の馬印が千成びょうたんとなったらしい。

二の丸で、閻魔大王と題目塚を拝む。ここから遂に岐阜城天守閣が見えた。

さらに少し階段を上って、
ようやく天守閣に到着。

下の眺めも開けた。長良川が素晴らしい。

天守閣に入る。入場料¥200だが、ここも、うーたん手形で入場。
この天守閣は、1956年(昭和31年)に造られた。
いかにもこの時代の模擬天守らしい、昭和のコンクリートの建物で、
今ではむしろ懐かしい雰囲気。

織田信長の時代にあった岐阜城は、
1601年(慶長6年)、加納城の築城とともに廃城となった。
1910年(明治43年)、木造の復興天守が築かれたが、
1943年(昭和18年)に火事で焼失している。

1階には岐阜城の略年表、刀や鉄砲などの武器を展示。
手裏剣など忍者の道具もある。
館内の説明文によると、信長は情報収集に忍者を使っていたそうだ。
このほか映像展示や、空襲で焼けた刀も。

2階は歴代城主に関する展示。歴代城主の画像(肖像画)がある。
鎌倉幕府の二階堂行政による築城から始まり、斎藤道三、義龍、龍興。
織田信長、信忠(信長の嫡男)、信孝(信長の三男)。
池田元助、輝政(元助の弟)、豊臣秀勝(秀吉の甥で、秀次の弟)。
そして織田秀信(信忠の嫡男、三法師)。

斎藤道三は従来、僧侶から油商人を経て成り上がったといわれてきたが、
実はそれは父・長井新左衛門尉の経歴だという説が、近年では有力だという。
(昨日、岐阜市歴史博物館でもそう解説されていた)

池田元助は池田恒興の嫡男だったが、長久手の戦いで父子とも戦死した。
戦死した場所を、以前訪れたことがある。リニモの長久手古戦場駅のすぐそば。

池田輝政は後に姫路城主になった。
関ヶ原の戦いでは、城主の織田秀信が西軍についたため、岐阜城は東軍に包囲される。
このとき東軍の攻め手の1人が池田輝政だった。
激戦の末、秀信は降伏し、岐阜城は廃城となった。

城を短期間占領していた竹中重治(半兵衛)や、
城主だったことはないが、かつての領主・土岐氏の一族だったという
明智光秀も紹介されていた。

この階には、大河ドラマ「信長」で濃姫(道三の娘で信長の正室)を演じた、
菊池桃子さんの衣装もあった。

信長についての解説がないなと不思議に思ってたら、
3階がまるまる「信長公の間」だった。
等身大の座像とご対面。京都・総見院のものの複製だが、城主としての威圧感がある。

ほかに江戸時代の具足などを展示。
また、ルイス・フロイスが岐阜に来たときのことを記した書簡が翻訳されていた。
岐阜の街のにぎわいが「バビロンの混雑を思わせる」と表現されていた。
(バビロンは古代メソポタミアの大都市)

岐阜城

そして4階の展望台へ。
南に木曽川が見える。
一宮のツインアーチ138が目立つ。
その向こうに名古屋駅と、
ミッドランドスクエアのシルエット。
岐阜城以前に信長の居城だった小牧山もある。

目を移すと、
岐阜地方気象台金華山分室越しに、
岐阜駅前のシティタワー43と
スカイウイング37。

そして西側から北側にかけて長良川。
西は関ヶ原、伊吹山方面でもある。

西からドラクエIIIの戦闘曲が聞こえる。
川沿いの球場で高校野球をやっているようだ。

北側に長良川温泉のホテル群。

東には日本アルプスの山並みまで見える。

山裾に町が広がっている。

天守閣を出た。
ゴツゴツした岩場の横の道を通って、

岐阜城資料館へ。
中は涼しい。

小さな展示室だが、鎖かたびらや陣羽織、
江戸時代初期の和時計、しょく台や手鏡など江戸時代の生活道具、
金華山焼というやきもの、1867年(慶応3年)の太政官制札、
武将の子供が遊んでいたという木馬(白馬)などを展示。
1910年(明治43年)に建てられた、木造の復興天守の写真もあった。

岐阜城

森の中の階段を下りていく。
下から石垣が見える。

午後1時40分。ちょうどいい時間帯に、
展望レストランに着いた。

どて丼を食べる。牛・豚のホルモンを味噌で煮込んでご飯にのせたもの。

窓の外には長良川。

岐阜駅前の2本のタワーは、
天守閣から見るよりもよく見える。

どて丼うまい。からしをつけるとさらにうまい。

階段を下りて、
ロープウェー乗り場に戻ってきた。
最後は乗り場の真ん前にある、
金華山リス村へ。
(入村料¥200)

手袋の上に粉状の餌をのせて、
リスに食べさせることができる。
リスを間近で見られる。
かわいい。

もっとも、1人で来ると、片手が塞がってるので餌を食べるリスの写真が撮れない。

餌を食べてるリス以外にも、
周りには多くのリスがいて、
動き回ってたり、寝ていたり、

金網からぶら下がってたりする。

金華山のリスはタイワンリス。
シマリスとは姿が全く違う。
(ここにも1匹だけシマリスがいるので、
違いがよくわかる)

タイワンリスはもともと、
1936年(昭和11年)に岐阜公園で開催された「躍進日本大博覧会」で、
展示物として岐阜に持ち込まれたのだが、パビリオンから逃げ出して野生化した。
野生化したリスを調教し、1965年(昭和40年)開園したのがこの金華山リス村。

ちなみにリス村には、リロちゃんというキャラクターがいるが、
見た目がタイワンリスというよりシマリスっぽい。

金華山リス村

午後2時45分のロープウェーに乗り、49分山麓駅着。
ストラップを買った。岐阜城、リロちゃん、そして飛騨のさるぼぼ。
山麓駅のテレビで、長良川球場の高校野球を生放送中。
県立岐阜商業が出てる。しかしリードされている。

信長公居館発掘調査案内所(旧土産店「信長楽市」)で、
出土品や、調査状況を説明するパネル展示などを見る。

暑いんで、公園総合案内所でちょっと休む。ここにもテレビがある。
斐太(ひだ)高校が県岐阜商に勝った。
(※この日登板はなかったが、県岐阜商の高橋純平投手は、
今年のドラフトで3球団に1位指名され、交渉権を獲得したソフトバンクに入団した)


アクエリアスを買い、飲みながら歩くことにする。
地図に「ロボット水門」と書かれていたので、何かと思ったら、

昔のおもちゃのロボットみたいな
頭がついてる水門だった。

日中友好庭園。岐阜市と中国の杭州市が
友好都市となったことを記念して造られた。
杭州市にある西湖を模した池がある。

この門は杭州市から贈られた。

公園を出て、長良川の川岸に来た。
碑がいっぱい建っている。

「斎藤道三公墳 従崇福寺従是西約壱丁西北八丁」と書かれた石柱。
(道三塚までの距離を示したものか?)

「川端康成ゆかりの地」碑。川端康成は1921年(大正10年)、
加納にある寺の養女となった伊藤初代に会うため、岐阜を3度訪れており、
このときのことを「篝火」「非常」「南方の火」などの小説に書いたそうだ。

松尾芭蕉の句碑。「おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな」

北原白秋が鵜飼を見て詠んだ、「鵜飼頭山下幹司翁歌碑」。

そして「篝火の像」。
鵜飼の篝火(かがりび)を眺める、
川端康成と伊藤初代の像だ。

長良川に架かる長良橋を渡る。
鵜飼見物用の屋形船が並ぶ。

長良橋の西側には、長良川国際会議場や、
長良川球場・長良川競技場などのスポーツ施設が集まった
岐阜メモリアルセンターがある。
でも西側には立ち寄らない。


鵜飼屋

橋を渡り切って、川沿いを東へ歩く。このあたりには長良川温泉のホテルがいくつかある。

対岸に目をやると、
視界を覆うほど大きな金華山。
こんもりした山だ。

私は「ナゴヤランド」というゲームに、
この山を登場させたことがあるが、
実際にこの角度から見たのは初めて。

長良川の鵜飼が行なわれるのはこのあたり。
鉄道唱歌では、名古屋城と同じ34番に岐阜のことが歌われているが、
やはり鵜飼が岐阜の象徴であることがわかる。

名だかき金の鯱(しゃちほこ)は 名古屋の城の光なり
地震のはなしまだ消えぬ 岐阜の鵜飼も見てゆかん

ちなみに地震というのは1891年(明治24年)に発生した濃尾地震のこと。
前回、岐阜市歴史博物館を訪れた際にも少し触れたが、
7000人以上の方々が亡くなられた、大きな地震だった。
鉄道唱歌が書かれたのは、9年後の1900年(明治33年)。

幅の狭い木舟が岸に並んでいる。
こちらの舟は鵜飼船か。
鵜匠さんたちが準備中。

長良川うかいミュージアム
(岐阜市長良川鵜飼伝承館)に到着した。
入館料¥500だが、
ここも「うーたん手形」で入る。

まず、1階の多目的スペースが休憩室になっていたので、
涼みつつ、日本と世界の鵜飼についてのパネル展示を見る。

2階へ上がるとそこは「景観ラウンジ」。
長良川と金華山が見える。
(このラウンジまでは入館無料)

仰向けに近い角度のソファーがある。
座ると岐阜城を見上げる形になる。そのまま寝そう。
でもちょうど、午後4時30分から展示室のガイダンスシアターが始まるという、
アナウンスが入ったので寝ずに済む。

展示室入口の通路には、6人の鵜匠の等身大シルエットと屋号(マーク)が描かれている。

ガイダンスシアター「長良川鵜飼への誘い」。
舟と鵜匠の人形を中心に、その背景と、手前(川を表す)に映像を流して、
鵜飼の準備から、本番、最後の「総がらみ」までを見られる。

1300年以上続く鵜飼。
明治時代に尾張藩の庇護を失うも、宮内省の所轄となって続けることができたそうだ。

映像を見終わった後、順路は舟の下へ。水面下での、鵜が鮎を捕らえる映像。

鵜飼の歴史。702年(大宝2年)には既に、
長良川で鵜飼が行なわれていたという記録が残る。
江戸時代、将軍の食べる鮎鮨は、鵜飼で獲れたものと定められていた。
鮎鮨は東海道を通って運ばれた。5日で江戸に着くと、ちょうど食べ頃だったそうだ。

江戸時代後期には鵜飼見物が広まり、明治以降は観光鵜飼としての性格が強まる。
大正以降は岐阜市もバックアップし、1933年(昭和8年)、市営長良川ホテルが開館。
うかいミュージアムは、そのホテルの跡地に建つ。

岐阜市長良川鵜飼伝承館(長良川うかいミュージアム)

2階の特別展示を見忘れていたので、いったん階段を上がって見る。
「清流長良川の自然」。長良川に暮らす、動物、鳥、魚を展示。

1階に戻る。鵜匠の1日の仕事と、1年のスケジュール。
鵜飼は5月11日から10月15日まで、中秋の名月の日を除いて毎日行なわれ、
その間、鵜匠は1日も休まないそうだ。
交代で休むということはなく、常に6艘揃うのが決まり。

シーズンオフには、腰蓑や足半(あしなか:小さなわらじ)、
かがり火用の松割木などを準備する。

年8回、皇室へ届ける鮎を獲る、「御料鵜飼」が行なわれる。
このため岐阜市の6人の鵜匠は、関市小瀬の3人の鵜匠とともに、
宮内庁式部職の職員としての身分が与えられている。

鵜の生態について。鵜飼には、野生のウミウが遣われている。
ウミウは現在、茨城県日立市十王町の「鵜の岬」で捕獲されている。

かつて私は、この「鵜の岬」へ行ったことがある。国民宿舎が建っていた。
ワンダースワンの旅 第35回

最後は鮎の生態について。鮎は晩秋に川の下流で生まれて、春に川を上る。
秋に下流へ戻り、産卵すると死んでしまうそうだ。
鮎の寿命が1年しかないとは知らなかった。

展示室を出て、売店へ。鵜の顔が描かれたTシャツがある。
私はそのデザインを縮小した、Tシャツ形のストラップを買った。
 
建物の外にある
「鵜の生態展示コーナー」では、
生きたウミウが羽を広げていた。
金網の目が細かいため写真はこんな感じ。

2階へ戻り、
もう一度展望ラウンジから写真を撮ると、
さっきとは山の色がちょっと違っていた。

館内のカフェに寄ろうと思ったが、もう午後5時45分。ラストオーダーが終わってた様子。

岐阜市長良川鵜飼伝承館(長良川うかいミュージアム)

外に出て、来た道を戻る。夕方で影も長いのにまだ暑い。
さっきの鵜舟が停泊してる場に、烏帽子(えぼし)をつけた鵜匠さんが現れた。
周りの方々もハッピを着ていて、出航が近づいてきたことをうかがわせる。

長良橋を渡る途中、
屋形船が出て行くのが見えた。

次から次へと船が出て行く。
ここが屋形船乗り場なのだ。

橋を渡り切ったところに鵜匠の銅像。

鵜飼観覧船乗り場には、今日の船は満席と掲示されていた。

南西に道が続く。
空襲をまぬかれた古い町並みが残る、
川原町界隈。
うだつのある町屋が建ち並ぶ。

軒先には岐阜提灯。

雰囲気のいい場所なのだが、
頻繁に車がビュンビュン通り過ぎるのは全くいただけない。
しかも、狭い道なのに一通じゃない。
まあ車が多くなる時間帯だとは思うけど。

車が来ないときは本当に風情がある。

さっき提灯の写真を撮った家が、古民家カフェだった。
アイスカフェラテを飲んでひと休み。
小さな中庭に、大きな石灯籠が立つ。羽振りのいい商人の家だったんだろうか。

外に出たら午後7時。薄暗くなったけど、まだちょっと暑い。
屋形船の待合所が開いていたのでちょっと休みつつ、
鵜飼にかかわる職人さん(船大工、観覧船の船頭など)の映像を見る。

今日の鵜飼は7時45分から。
水位が高く、流れが速いので、観覧船は南岸のホテル前につける形になるらしい。

茜色の夕焼け空が美しい。

川面にその色が映し出されてなおきれい。

金華山の下の川原に、屋形船が集結していた。
北岸から見た方が見やすそうだと思い、また橋を渡る。
渡っている途中に、あの細い鵜舟がやってきた。

舟はいったん上流(東側)へ。
遠くの水面付近に、オレンジ色の明かりが4つか5つ見える。あれが鵜舟のかがり火か?

長良川北岸の遊歩道。
足元に照明が並んでいるが、川に面した側を塞いで、光が届かないようになっている。
鵜飼に影響しないようにという配慮だろう。

上流に花火が上がった。上がるの知らなかったからびっくりした。

オレンジ色の光が6つ、ゆっくりゆっくり近づいてくる。

屋形船の前を、
6そうの舟が次々と通り過ぎる。
北岸からでも、かがり火ははっきり見えた。
舞い上がる火の粉も見える。
舟に人が3人乗ってるのも見える。

ときおり聞こえるお客さんの歓声。
舟べりを叩く音も。
ただ、さすがにここからでは鵜は見えない。

6そうは屋形船の向こう側を回って
上流に戻る。
集まったところで、
競艇の進入のように6艇が横に並ぶ。
総がらみだ。

6そうが横一列に広がって、
鮎を追い込む総がらみ。

手前側の舟は、ここからでもよく見える。
鵜匠の持つ紐まで見えた。

総がらみが終わった。屋形船が次々と下流へ引き揚げていく。
しばらくして、鵜舟が上流へ去っていった。
エンジンを取りつけて走ったので、ますます競艇っぽい。

少し大きな街の、少し大きな川で、
特別でも何でもない日に繰り広げられた幻想的な夜宴。
空高く輝く上弦の月がまた、現実感を失わせる。

ぎふ長良川鵜飼

私も引き揚げるとしよう。鵜飼屋バス停へ。
午後8時36分に来た市内ループ右回り線のバスに乗って、JR岐阜駅に戻る。
信長のラッピングバス。今朝乗ったものとは違って、中から信長は見えない。


岐阜

8時57分着。(ゲーム路銀 ¥2,500-¥210=¥2,290
晩ごはんを食べてない。もうレストランは開いてないだろうと思ったが、
駅構内のアスティは開いていた。
奥美濃古地鶏を出す店があったので、親子丼を食べる。
この時間なのにかなり混んでた。鶏うまい。

今回のゲーセン紀行はこれにて終了。ホテルに戻る。
岐阜市内には行きたい場所がまだあるけれど、行けるのはいつになるだろうか。

翌25日。
11時近くにホテルをチェックアウト。
JR岐阜駅前には、2棟の超高層ビルが建つ。
写真左が岐阜シティ・タワー43。
右が岐阜スカイウイング37。

駅で鮎菓子を買う。
11時38分発の快速・豊橋行きに乗って、岐阜を後にした。
晴れたので、木曽川を渡る間、ツインアーチ138はもちろん、
オアシスパーク(各務原市)の観覧車までよく見えた。

国営木曽三川公園(ツインアーチ138)
オアシスパーク

11時46分、尾張一宮駅着。
せっかく七夕まつりをやってる期間に来たんだから、
東京へ帰る前に、立ち寄ってみることにした。
(この続きは、「日本縦断ゲーセン紀行 203.尾北編(12)」にて)

現在のゲーム路銀
¥2,290

今回のルート




岐阜観光コンベンション協会(岐阜市)  岐阜県観光連盟
JR東海  名古屋鉄道  樽見鉄道  養老鉄道

次回、「日本縦断ゲーセン紀行 206.岐阜編(3)」では、
名馬のふるさとを訪ねて賭ける。
「日本縦断ゲーセン紀行 204.岐阜編(1)」に戻る


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