ゲイムマンのダイスステーション 日本縦断ゲーセン紀行
197.明治村1日で回り切れるか?
スタート時点での「ゲーム路銀」は、「ゲーセン」にちなんで¥5,000(G千)。
2015年2月15日。8時起床。 昨晩、今日行く場所について予習をしてたら寝るのが遅くなり、また5時間睡眠。 外に出ると、雨がさっきまで降っていたのか、地面がぬれている。 9時28分発のバスに乗る。昨日と同じ時刻だが、今日乗ったのは明治村行き。 犬山駅前から、リトルワールド行きのバスと明治村行きのバスが同時に出るのだ。 バスを待つ間に雨が降ってきたが、発車する頃には日が差してきた。 このバスはリトルワールド行きとは違って、途中いくつかの停留所を通る。 しかし時間帯のせいか、途中で降りた人は2人だけで、 十数人が終点の明治村まで乗り通した。9時48分、明治村着。 (ゲーム路銀 ¥1,620-¥420=¥1,200)
博物館明治村は、主に明治時代の建物を保存展示している施設。 明治になって新しくできた業種や制度のために必要となった建物が中心で、 時代を包括的に理解できるようになっている。 建物の数は、昨日訪れたリトルワールドの2倍以上。 リトルワールドはぎりぎり1日で回れたが、 果たして今日は午後4時の閉園までに回り切れるだろうか? 明治村は1丁目から5丁目まで、5つのエリアに分かれている。 1エリア1時間で回れば、午後3時に回り終わって、1時間の余裕ができるはず。 開村時刻の数分前にチケット売り場が開いた。(入村料¥1,700) 1丁目の最初は、神戸にあった大井牛肉店。1887年(明治20年)頃の建物。 牛肉は明治維新を象徴する食べ物といえる。 当初は外国人向けのお店だったためか、 普通の食べ物屋さんなのに、柱や窓の造りがやたら凝ってる。 現在も、店内は食べ物屋さんになっていて、牛鍋が供される。
室内では、明治の教科書や、石盤など当時使われていた道具を展示。 教室も1部屋再現されている。 小学校や尋常師範学校(小学校の先生を育てる学校)もまさに、 明治になって学校制度が確立してから新たに生まれた建物。 隣にある近衛局本部付属舎では、伊藤博文の業績を子供向けに解説展示。 その隣には赤坂離宮正門哨舎。今も皇居のそばに、似た感じの交番があった気がする。 (※現在の迎賓館(旧赤坂離宮)正門にも、似た形の建物が再建されている)
1階の部屋の壁が青色LEDでべたーっと覆われてたのはどうかと思うが (2月22日まで期間限定の装飾だったようだ)、 2階は祭壇といい、天井の木組みといい、ステンドグラスといい、見事なものだった。
私が明治村に来たのは多分3回目だけど、 西郷従道という名前は、昔ここに来たとき初めて知った。 それと、こういう建物の、細部に施されたデザインを見る楽しみは、 過去来たときにはよくわからなかった。
この時代の一般的な民家だそうで、こういう家はなかなか後世には残らないものだが、 2人の文豪が住んだおかげで、幸運にも保存されているのは嬉しい。
鴎外・漱石住宅から、長い階段を下りる。 皇居二重橋の電灯があり、その奥に鉄道局新橋工場。 明治天皇と昭憲皇太后の御料車が展示されていた。 一隅に鳥居と神棚。明治天皇をまつる「明治神社」となっていた。 三重県庁舎(重要文化財)は、コの字型の大きな建物。 今日は、今はやりの脱出ゲームが行なわれていて、中に入れなかった。 これで1丁目終了。1時間以内で回りたかったが、現在11時16分。 午後4時までに5丁目まで回れるか微妙になってきた。 しかも朝からまだ何も食べてない。 博物館 明治村 2丁目は、レンガ通りの左右に建物が並ぶ。 千早赤阪小学校講堂は、修復工事中だった。
天井が高い。大学によくあるひな壇状の教室が残っている。 別の一室は、明治村創立者、谷口吉郎・土川元夫両氏の顕彰室になっていた。 お2人は第四高等学校の卒業生。
各地の町村を束ねる「郡」という行政区分ができたのは、 1878年(明治11年)の郡区町村編制法施行から。 現在と違って、かつては郡役所があり、郡長がいた。 以前、会津田島で見た、南会津郡役所の建物を思い出した。
第51回「雪とトンネルの県境越え」(会津田島→会津高原→上三依塩原→鬼怒川温泉) 東山梨郡役所の中へ。1階の小さな部屋に、 福沢諭吉、夏目漱石、伊藤博文、板垣退助を紹介する展示あり。 2階はギャラリーになっていた。 四国八十八ヶ所と「坂の上の雲」と松山市のPR展示があった。
旅先でたまに、こういうすごく古い医院の建物が、現役で使われているのを見かける。 (明治時代のものは、ほとんどないと思うけど) 造りがしっかりしているからだろう。
3階建ての木造住宅は、法律で高さが規制されていない期間が 明治から大正前半までと短かったため、非常に珍しいらしい。 畳の部屋と土間のある商家は見たことがあるが(おととい見た磯部家など)、 さらに3階までの吹き抜けがある建物は初めて見た。 東松家住宅の隣に、京都中井酒造、安田銀行会津支店が並び、それぞれお店になっている。
大正から昭和までの受話器が展示されていた。電話交換機もある。 グラハム・ベルによって電話が発明されたのは1876年(明治9年)で、 翌年には日本に輸入される。1890年(明治23年)、東京と横浜で電話交換業務開始。
1901年(明治34年)に造られ、 名鉄の前身である名古屋電気鉄道で1907年(明治40年)まで使われていた。 その後、札幌に渡って市電となり、1936年(昭和11年)頃まで活躍。 札幌市で静態保存されていたが、 名鉄120周年(2014年)と明治村50周年(2015年)を記念して、 明治村が札幌市交通局から借りて展示している。 自撮り棒で撮影している女性たちがいた。 昨日あたりから2回か3回、自撮り棒を使う観光客を見かけている。 ここ1、2ヶ月で急速に普及しつつあるようだ。 京都七条巡査派出所で2丁目終了。 時刻は正午だ。かなり巻いた。 博物館 明治村
尖塔、ドーマー窓、ファサード、車寄せ、それぞれ凝ったデザイン。 いろいろな要素が詰め込まれているけど、全体としてはまとまってる感じがする。 室内では、昔の医学書や顕微鏡を展示。 北里柴三郎(破傷風菌の培養に成功、血清療法を開発、ペスト菌を発見)をはじめ、 さまざまな病気の研究者が紹介されている。 こういう人々の尽力によって、数々の伝染病が、根絶されたり減少したりしているのだ。 特に結核との戦いの歴史が、詳細に書かれている。 もちろん北里研究所のあゆみも紹介されている。
この家は、阪神淡路大震災で被害を受けたため解体され、2007年当地に復元された。
隠居といっても、西園寺は元老として発言権が強く、 何かあるごとに政治家が、西園寺の意見をうかがうため“興津詣で”を行なっていた。 坐漁荘がもとあった興津には、2004年に坐漁荘が復元されている。
第121回「いろんな時代の東海道を見る」(由比→興津→清水) 私は復元された坐漁荘の方をよく覚えていたので、 明治村にある方が本物なのに、「よく再現されてるなあ」とつい思ってしまう。 小さな庭もいい。 このあたりから入鹿池が見えるが、視界を遮るように灌木が植えられている。 すぐ下を市電が走っているため、人が線路に落ちないようにこうなっているのだろう。 1877年(明治10年)頃の京都の茶室「亦楽庵」を見て、奥にある階段を下りていく。
明治時代に数多くの灯台を設計した、リチャード・ヘンリー・ブラントンの設計。 当時は灯台守も西洋人だったので、洋式住宅になっているそうだ。 官舎の室内では、菅島に近い神島(三島由紀夫の「潮騒」で有名)の 灯台のレンズと回転装置が展示され、実際に回転していた。
京都の市電は1895年(明治28年)に、日本で初めて営業運転された電車の路線。 (開業時は京都電気鉄道) この車両は、明治43年から44年にかけて造られたもの。 歩いて先へ進むと、汐留火力発電所のレンガで造られた巨大迷路があるが、現在立入禁止。
台場鼻潮流信号機(下関の竹ノ子島に設置されていた腕木式信号機。 船舶に潮の速さと向きを伝えていた)を左手に見ながら進む。 3丁目から4丁目へ。時刻は午後1時13分。 あと4丁目と5丁目を1時間ずつで回れば、閉園までに全部見られる。 博物館 明治村
広い部屋の中で、小さな子供たちがはしゃいでいる。 部屋の半分が畳敷きの柔道場、もう半分が板張りの剣道場。 剣道の音や声がスピーカーから流れている。 隣の部屋は弓道場。 武術の価値も、明治時代の間に上下したらしい。 明治初期、学校の体育は体操が中心だったが、 嘉納治五郎の尽力などがあって、明治後期には体育に武道が加えられた。
入口にある日赤のレリーフがでかい。 病室のベッドや、看護師の制服、担架や救急箱など展示。 ナイチンゲール記章の日本人受章者の名前と写真を掲示。 南側の大きな窓から陽光が差し込んで非常に明るいが、もともとは南北が逆で、 北側が少しでも明るくなるように、窓を大きくしたのだそうだ。 赤十字病棟の向こうに、歩兵第六聯隊兵舎が建つ。 1873年(明治6年)、名古屋城の二の丸に造られた。 現在では愛知県体育館になっている場所だ。 外も中も質実剛健というか、すっきりした感じ。 軍服や銃、ベッドなどを展示。 いかめしさを和らげるためなのか、おみやげ屋があったり、プリクラがあったり、 2階が射的場や「暗夜回廊」というアトラクションになってたりする。 この建物のすぐそばに、路面電車と蒸気機関車の乗り場がある。 ちょうど電車とSLが両方止まっていたのだが、 カメラを構える前に発車してしまい、写真を撮り損ねた。 名古屋衛戍(えいじゅ)病院では、手術台や外科器械、薬の看板、 赤べこ(疱瘡を追い払うとされていた)、回虫や日本住血吸虫の説明用模型を展示。 大正時代のX線装置もある。装置の上に何本かついてる碍子(?)が、 昔の漫画に出てくる機械やロボットみたいだ。
笠戸丸は、もともとロシアの船だったが、 日露戦争で病院船として使われていたのを日本海軍が捕獲。 東洋汽船が借り受けて、ブラジル、ハワイ、ペルー、メキシコへ移民を送った。 特にブラジルへは1908年(明治41年)、日本からの最初の移民を送り届けた。 後に蟹工船などの漁業工船として使われるが、1945年(昭和20年)、ソ連の攻撃で沈没した。 「石狩挽歌」の歌詞に名前が出てくることでも知られる。
ここまでで4丁目の半分くらい。今気づいたけど、4丁目、広い。
この橋は1912年(明治45年)、東海道線の複々線化に伴って別の橋に替えられたが、 1915年(大正4年)から1965年(昭和40年)まで、 御殿場線の酒匂(さかわ)川橋梁として再利用されていた。
SLと橋を見て、「これが昔はあの一宮の町を走っていたのか」という思いと、 「この橋があの六郷土手に架かっていたのか」という思いが同時に来た。 ひときわ大きな建物は、鉄道寮新橋工場。 1872年(明治5年)の新橋−横浜間開業当時の建物だ。 内部では、明治時代のさまざまな巨大機械が展示されている。 印刷機や発電機。富岡製糸場の蒸気機関(ブリュナエンジン)。 菊花御紋章付平削盤(重要文化財)。 旋盤。丹那トンネルの工事に使われた空気圧縮機。蒸気ハンマ。 打綿機。紡績関連の機械(リング精紡機は重要文化財)。
中の展示は、郵便局員の制服、明治から昭和までの郵便ポストなど。 昭和後期くらいのポストが懐かしい。 畳敷きの局員控室や、切手倉庫、電話交換室もある。 (明治時代の後半から、電信電話も郵便局が担当することになった)
右は1868年(明治元年)静岡県焼津市に建てられた、山口乙吉という魚屋の家で、 後に小泉八雲が、夏場に避暑のためここで過ごすようになる。 現在、この家の1階は駄菓子屋になっている。
舞台と座席を見られる。 呉服座の舞台に立った、そうそうたる芸人さんたちの写真が並んでいた。 芸人ではないが、ここで演説を行なった尾崎行雄の写真も。 半田市亀崎にあった東湯という銭湯の建物で、ようやく4丁目が終わる。 時刻は、午後2時55分! 閉園まであと1時間しかない。 博物館 明治村
この写真では見えないが、正面に漢字で「天主堂」と書かれている。 字体がいい。 祭壇には、ザビエルを中心に聖人の像が並ぶ。 今は2月だが、聖母マリアの清めの祝日(聖燭祭)が2月だからという理由で、 クリスマスリースがまだ飾られていた。
日本のステンドグラスのパイオニア、木内真太郎氏と、 孫の木内保英氏、ひ孫の木内英樹氏の作品が展示されていた(2月22日まで)。
隅田川の新大橋があるが、修復工事中だった。
書棚を使って、国内外のいろんな建物の、真っ白なミニチュアを展示。 私が行ったことのある場所もかなりあった。 内閣文庫の隣にあった、皇居正門石橋の飾電灯を見て、 展望タワーに向かう。
川崎銀行改め第百銀行が、三菱銀行に吸収された後も、建物を共同使用していた 川崎信託(後の日本信託銀行、現・三菱UFJ信託銀行)が使っていた。 1986年(昭和61年)、ビル建て替えのため取り壊された。
日本的な外観と、コウモリ天井のある教会らしい内装とのギャップ。 素朴な雰囲気は、石巻のハリストス正教会を思い出させる。
冬場だから仕方ないかもしれないけど、閉園が午後4時って早い。 せめて開園が朝9時だったなら。 SLの北口側の駅、「東京駅」へ行ってみた。
しかしこの時点で3時45分。園内に「蛍の光」が流れている。 結局残り6棟の建物は、外観をあわてて写真に撮ることしかできなかった。 出口に向かう。SL東京駅が北側の出口だけど、こっちには路線バスが来ない。 バスの来る方の出口までひたすら歩く。 到着して、時計を見たら4時16分。もっと長く歩いていたような気がする。 朝から何も食べていないしもうフラフラ。 これだけ展示が充実しているので、2日かけてじっくり回りたいけど、 犬山駅からでもバスで20分、名古屋からだと1時間かかる立地がネック。 貴重な建物をいくつも見ることができたのに、 その割には終始時間に追われて、あまり楽しめてなかったかもしれない。 博物館 明治村 午後4時35分のバスに乗る。4時54分、犬山駅着。 (ゲーム路銀 ¥1,200-¥420=¥780)
イトーヨーカドーの地下のフードコートで、味噌煮込みうどんにありつく。 まあ多少回り切れない場所があった方が、余韻が残って、それはそれでいいのかなと、 うどんを食べながら考えたりもする。 機会があったらまた明治村に行って、今回見られなかった場所を見て、 今回食べられなかったものを食べて、くつろいでこよう。 (※後日行ってきました。「日本縦断ゲーセン紀行 尾北編(番外編)」) ホテルに戻ってきた。しばらく休んでから、近くのファミレスで夕ごはんを食べた。 ¥780 今回のルート
犬山市観光協会 愛知県観光ガイド 名古屋鉄道 岐阜バスコミュニティ 次回、「日本縦断ゲーセン紀行 198.尾北編(7)」では、 江南を経て名古屋市内へ戻る。 「日本縦断ゲーセン紀行 196.尾北編(5)」に戻る 「ゲイムマンのダイスステーション」タイトルページに戻る |
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